2011年9月28日水曜日

自知落上

自分のことって知っているようで知らなかったんだなと最近つくづく思います。
「なんだよ俺なんにもできないじゃん」と思うことばかりです。


そんな自分の無力さを感じるとやっぱり落ち込みます。相当落ち込みます。「なにをしているんだ俺は.....」という風に。
もう負のスパイラルですよ。このスパイラルはなかなかのスパイラルですよ。自尊感情なんて吹き飛んでしまう。

だからといって、全てを投げ出していいのか。そうじゃないですよね。これって結構みんなが思っている当たり前なことなんでしょうが、実際に自分の無力さを痛感すると案外そんなことも言ってられなくなるんですよ。「もう落ち込んじゃって、ダメダメ」みないな感じになっちゃうんですよ。でもやっぱり、そこで思うわけです。投げ出したらいけない!!って。



むしろその無力さを感じる機会があって、ありがたいんじゃないかと思うようになってきたんです。「あぁ〜ここがだめだよな〜」と感じたら、そこを改善するために意識すればいい。そんな風に思うようになってきました。自分に足りない所が分かった!!と思えばいい。足りない所だらけな自分に早く気がつくことってかなり大切なんじゃないのかな。


かつて福田元首相が「私は自分を客観的に見る事ができるんです」って言ってたけど、自分を客観的に見るのって相当難しいと思います。むしろ出来ないような気がします。
でも、自分を客観的に見ようとする努力はできると思います。この違いってかなりあると思います。客観的に見る事はできないけど、客観的に見ようとする事はできるはずです。それを止めたらいけないのかなと気がつくことができたように思うんです。



ですが、最後に.....そうは言ってもやっぱり落ち込みますよ 笑




2011年9月20日火曜日

最近の若者って?

よく、「最近の若者はつまらん!!」というような意味の発言がありますよね。僕自身も若者ですが「そんなことない!!」と声を張り上げて言うつもりはありません。

僕が中学生の頃に退職した小学校の元校長先生と話をする機会がありました。その中で、「携帯電話なんか持ちなさんなよ。私なんかも持ってはいるけど今なんかほとんど使ってないよ」と言われました。

そして、そんなことを言われて少しだけ腹を立ててしまったのを覚えています。
中学生の僕と還暦過ぎた二人の人間を比較するのはどうなんだと。逆に聞きたい。あなたが中学生の頃に携帯があってもあなたは携帯を持たないのかと!


そんな感覚で最近の若者は.....みたいな事を言ってほしくないなと思ったのを覚えています。


何かに記されてあったそうなんですが、古代エジプト人もその昔「近頃の若い者はつまらん」という意味合いの言葉を残していたそうですよwww



2011年9月13日火曜日

歓喜

先日、広島で行われた福山雅治さんのライブ「THE LIVE BANG!!」に参戦してきました。


もう感動を通り越しました。現実との境が分からなくなるくらい幸福感に包まれた時間でした。何より、福山さんの誠実さを感じました。実際に見てはいますが、直接的に会って、話した訳ではない。でも、伝わるんです。その誠実さが。


そして、もう一つ強く感じたこと。それは自分のちっぽけさです。あそこまでのエネルギー溢れる、大きな人を感じて、いい意味で自分の身の丈を感じることができたと思っています。これ、かなり僕自身の中では意味あることなんです。



今後の自分のあり方や進むべき道の指針ができたように思います。昔からのファンですが、これは実際に会場に行き、本物を感じないと湧いてこない感情だと思います。

言葉はいらない。

2011年9月7日水曜日

曜日。

この間、ある先生が朝の会で「曜日」について話をしているのを聞いて、どうやって日曜から土曜といった並び順になったのかが気になりました。




間違っていたらすいません......


そもそも日曜は太陽。月曜は月、火曜は火星というようにそれぞれの天体の名前からきています。これら7つの天体を七曜と呼ぶそうです。七曜は守護の役目もあったそうです。




昔の(かなり大雑把www)天動説では七曜は地球から見て角速度が早いものほど地球に近いと考えられていたそうです。
角速度とは物体や質点の回転の速さを表す量であるそうです。そして、その角速度は角度と時間の商で表すことができるそうです..........まあこのへんはニュアンスですよ!!ニュアンスwww


その角速度からいくと地球から『月・水星・金星・太陽・火星・木星・土星』の順に並んでいると考えられていたそうです。


いまのところバラバラで、まだ現在の並び順ではないですよね。では、ここからどうなるか。


本来、七曜は、1曜が1日ではなく1時間毎に地上を守護すると考えられていたそうなんです。つまり1時間ごとに七曜が変わる。0〜1時までが土で、1〜2時までが木みたいな感じですね。




もっとも遠い天体からスタートするので、0〜1時までが土で、1〜2時が木、3〜4時は火という一時間毎に変わっていくんです。そうするとどうなるか。次の日の一時間目がポイントです。ポイントというより、答えです。ある日のスタートが土から始まって、次の日の一時間目つまり、24時間後の0〜1時に日(太陽)がくるのです。そうなるともう分かりますね。その次の日の一時間目に月がくるんですよ!!


そして、その日の一時間目の天体がその日一日を守る守護星だと信じられていたので、日、月、火、水、木、金、土という並びになったらしいのです。


どうですか。うまく説明できてないでしょう!!www















2011年9月4日日曜日

智頭町森のようちえん「まるたんぼう」

先日、鳥取県智頭町にある森のようちえん「まるたんぼう」に行ってきました。そこでの感動はtwitterなんかでたくさんつぶやいたのですが、本当に素晴らしい一日でした。



智頭町の自然も素晴らしかったのですが、やはり、そこで探究心や好奇心をフル活動させ、主体的に遊んでいる子どもの姿、そしてそれをしっかりと見守る職員のみなさんの姿にもの凄い刺激を受けました。



感動はたくさん。本当に幸せな時間でした。
次はその様子や感じたことから自分達の活動を見直したり、もう一度考え直すことが必要です。
まず感じたことは、徹底した見守るという姿勢です。子ども達は高い崖のような所も歩きます、急な斜面も歩きます、もちろん今までの経験もあり、慣れてはいるのでしょうが、「危ないから、そっちはダメだよ」なんて声は聞こえない。森に入る前の道路でだって必要以上の声はかけない。これって果たして自分はできているんだろうかと思うと、まだまだな気がします。ここまで徹底した見守るという姿勢を見るとその思いはより強くなります。


「危ないよ」と言われたらそれは人の判断になる。というお話もありました。本当にそうですね。その瞬間に子どもは「あっ危ないのか」と自分の判断を使うことを止めてしまう可能性がある。これはとても納得でした。


次ぎに子ども達の活動は保証されている。子どももそれを理解しているということを感じました。森に着き、思うままに基地作りに取り組んでいた子ども達。でも、しばらくして「朝の会しようかな〜」という職員の方の声で自然と集まってきたのです。代表の西村さんの話にもありましたが、子ども達はこの朝の会が終わればまた、自分の好きなように遊べることを知っているから集まれる。それに朝の会も苦痛な時間ではない。しっかり活動が保証されているからきっと落ち着いているんだろうということでした。

保育所での生活はどうしても時間が優先されます。活動があっての時間というよりも、時間があっての活動。そんな印象を受けます。以前に比べるとかなり変わってきてはいるのですが、もう少し時間というものの捉え方を考えなければと思っています。


そして、智頭という地域と上手く繋がっている。これは代表の西村さんが以前研究していたマングローグからヒントを得ているそうです。
マングローグの破壊を止めるにはそれを違法に伐採する、伐採するしかない貧しい人達も救わなければいけない。そんな経験がこのまるたんぼうの活動にも活きているのだそうです。それは日々のブログや見学の際に感じました。


保育所や幼稚園と地域のあり方はこれからどんどん変わっていくものだと思います。まだまだ、はっきりと想像できていませんがこれからの課題にもなりそうです。


まるたんぼうの方達とのお話や、見学の様子から強く感じたことはやはり「関わる大人の姿勢」です。

環境はもちろん素晴らしいのですが、その環境は活かすのは関わる大人次第ではないでしょうか。どんなに良いバットやシューズを身につけたからといって、僕はプロ野球選手にはなれません。優秀な選手がたくさんいてもロボットには監督は務まりません。

それを活かすのは人なんだろうと思います。

「保育って楽で、楽しいものだと思います」こんなことを職員の方が言っておられました。この言葉に子どもとの関わり方が集約されている気がします。




出しゃばっているだとか、調子にのっているだとか、偉そうにだとか。
そう思われてもいいです。僕は素直にいいと思ったことを口にして、行動していきたいと思います。

そんな思いを強くさせてくれた素晴らしい時間でした。ぜひ、またお邪魔したいと思います。






自然

なんだかいつもと同じような内容のブログになってしまうかもしれませんが、少し思ったことを文章にしてみようと思います。



自然ってなんなんでしょうか。最近そんなことを考えます。分からないから考えたくなります。考えてはいますが、やっぱり分かりません。でも、考えています。ずっと。



まず、自然って人間の意識が及ばない所だと思っています。人間が意図して作り上げたものではないので当然ですね。では、僕たちの住んでいる所はどうでしょうか。ほとんどの物が人間が意図して、意識して作った物だらけです。道路だって、信号だって、建物だって全てがそうです。



人間が作った物だからある程度はどんな物か、どんな動きをするか、どんな物があるかが予想できる。知ってしまっている。
では、自然はどうなんでしょう。必ずここに行けば、この生き物にあえる。いつも同じ形で川は流れている。水量も同じ、季節に関係なく昆虫や動物はいつも同じ種類の物がいる。


果たして、そんなことがあり得るのでしょうか。あり得ないですよね。川は日々形を変え、生き物の種類は無数で、よく目を凝らせば名前もしらないものばかり、どんな物を食べて、どんな生き方をするのかなんて分からない。

だから、おもしろいのだと思うんです。知らない事だらけ、知らないからおもしろい。「知らない」ってこともかなり大切だと思うんです。



養老孟司さんは著書で「知る事は怖いことだ」と書いておられました。最近になってその意味がなんとなく分かってきたように思います。



例えば子どもが誰かに何か一方的に教え込まれ、その何かについて知った気になってしまうとします。そうするとその子どもの何かに対する興味は薄れてしまうのではないでしょうか。大人でもそうです。知った気になることが僕もよく、あります。そうなるとどうなるか.....もうその事は知った気になっているのでその事について深く考えないようになってしまう。


これは、怖い事ですよね。その人の中で固まってしまう。決めつけてしまう。

だからこそ、人間はたまには「知らない世界」に出向かなければいけないと思うんです。こんなに発展した都市になっているので、意識して出て行かなければならないと思うんです。

その知らない世界が自然だと思っています。


ん~うまくまとまってないぞ~まだまだ自然について分からないことだらけなのでこんな内容が更新されるかもしれません.....

里山



「里山」っていいですよね。美しい景色です。
最近、里山を目にする機会が増えたので特にそう思います。どうして、里山はあんなに美しいのでしょうか。以前、養老孟司さんがその理由を「人間が手入れしているから」と書いておられました。
フィリピンでは里山が世界遺産になっています。



里山は原生林ではありません。開拓され、田んぼもある。その田んぼは人間が管理している。手入れしている。だからこそ、美しい自然として存在しています。

養老さんは子どもは「自然」であるとおっしゃています。
身の回りにある自然のことを人間は全て理解している訳ではありません。だから何か都合の悪い事があれば相手の様子を伺いながら手入れしていくしかない。稲だって太陽と水と肥料で育つからといっても放っておけば雑草だらけになってしまう。


上手く手入れしてあげないといけない。でも、手入れってコントロールすることではないと思うんです。コントロールする時にはきっと相手の反応なんて関係ない。自分の思う所になんとか持っていこうとする。それに比べて手入れは、相手の様子から自分の行動を決める。


子育てもこれと同じなんだと。でも、この手入れって結構な手間がかかるみたいですね。今から将来のために手入れの覚悟が必要ですwww
ん~うまく整理できましたかね?なんだかよく分からなくなってきました。いつものことですね。

どうにもならないこと。

「どうにもならないこと」って世の中に溢れています。自分の思い通りならないことばかりです。でも、なんとか自分の思い描いた通りに事が進むように僕達は努力をします。


それでも、どうにもならないことって沢山あるものだと思うんです。



「どうにもならないこと」って体験から学んでいくものの様な気がします。

例えば、人間関係。これは年齢に関係なく、いろいろな人とと関わることで感じられるのではないでしょうか。保育園の中で様々な友達と遊ぶ、生活を共にする。そんな中で、おもちゃを貸し借りや意見のぶつかりを経験する。誰もが自分の言う事を聞いてはくれないと感じる。

「どうにもならない」ことです。

小学生の頃、カブトムシを飼う。メスとオスを飼育して、なんとか卵を産ませたい。カブトムシも長く飼いたい。でも、子どもの思いとは裏腹にカブトムシは越冬することもなく、交尾することもなく、死んでしまう。

「どうにもならない」ことです。


中学、高校となり、好きな異性とつき合うことになった。デートに出かけたり、ふたりだけの会話を楽しんだり、キスをしたり。でも、別れはやってくる。自分は別れたくはない、でも相手の意思は固い。これは、別れるしかない。

「どうにもならない」ことです。


高校、大学を出て、就職。結婚もして、子どもが生まれる。仕事から帰って、家で明日のために少し仕事をしようとパソコンを開く。しかし、しばらくすると子どもが目を覚まし、泣き出す。奥さんは明日、朝が早いので旦那さんが子どもをあやし、寝かしつける。結局、仕事は進まない。

「どうにもならない」ことです。


生きていく中で、人と関わる中で、どうにもならないことや思い通りにならないことは日常です。だから、楽しい。だから人は人と生きていけるんじゃないでしょうか、それを互いに理解し合うことで。


自分の思い通りになんかならい。それを強引に進めようとすると強制や縛りになる。それは良い関係ではないと思うんです。これは、もう体験するしかありません。そんな環境を大人達が用意することって大切なんじゃないのかなと漠然と思うんです。

どうでもいい話


以前つぶやいたことを少し整理したくてアップします。(追記…結局、まとまりませんでした(*:*))
 小笠原諸島、琵琶湖、西表島、日本でも様々な所で生態系の問題があり、それに対しての対策もなされています。それは、日本だけではなく世界的なことだと思います。
 


 人間の手で破壊されたといわれる各所の生態系。例えば、琵琶湖ではかつて琵琶湖には存在しなかったブラックバスが問題になっています。人間の手でやってきたと言われるブラックバス。繁殖力も強く、また肉食であるため、琵琶湖の在来種の魚を捕食します。そのため在来種の魚がどんどん減少しているという問題があります。



 その増えすぎたブラックバスを駆除しようという動きも大きくなって、実際に行われています。琵琶湖に限らず、こういった問題は各地で起こり、多くの生物が駆除の対象になっています。


 駆除されている生物のほとんどが外来種。日本には存在していなかった生物。人間の手などによって持ち込まれた生物です。持ち込まれた理由も様々ですが。


 そんな駆除活動のニュースを見ていて何だか違和感を覚えたのです・・・・・・・・


 確かにその生物を持ち込んだのは人間です。それが、本来の地球のスピード?どう表現したらいいんだろ・・・つまり・・・人間が持ち込んだから環境、自然からしたら不自然だと。不自然に生物が繁殖し、他の生物が絶滅の危機にあるから、じゃぁ、その不自然の元である生物を排除しようと。


 なんだか、それって変ですよ。本当に不自然なのでしょうか?なんならそれも自然なことなんじゃないの?と思ってしまうんです。

大昔、僕たちは日本には住んでいなかった。渡来してきて日本に住みついた。そんな風にして人間は何万年もかけて繁殖してきた。森を切り開き、田畑を耕しながら。


 少し話はとびますが。鳥の足に生物の卵や、植物の種子などが付着することで離れた場所に卵や種子を運ぶことになり、各地で繁殖するみたいな例もあるようです。


 これらとブラックバスなどの外来種の繁殖にあまり違いがないように思うんです。人間の手で運ばれたのも一種の手段なだけではないでしょうか。ブラックバスの繁殖方法の一つにすぎない。その結果、在来種が絶滅し、外来種の天国になったとしても、それも自然なのではないかなぁなんて思うんです。


 そんな風にして絶滅と誕生を繰り返して地球は生きてきたように感じます。もちろん、そのスピードに問題があると言われれば納得するんですが、このスピードの速さもここまで文明が発達したら自然なことなのではと。

きっと、このスピードに環境も適応していくような気がするんです。



環境破壊ですら、自然な現象みたいな。

自分でも何が書きたいのかよく分からなくなってきました・・・とにかく何でも駆除みたいな行為に違和感を覚えたので・・・・・・



ブラックバスの数が減少すれば、きっとブラックバスを保護する動きになるんだろうし・・・

でも、決して批判しているわけではありません。自然のために、地球のためにという思いの活動を非難するつもりは全くありません。