2013年12月31日火曜日

2013年の終わりに

2013年も終わろうとしています。
今年もいろいろな発見があったり、たくさん反省もした1年でした。
反省とか気づきは1年で区切るものでもないですね。
ずっと意識していきたいと思っています。



で、2013年の年末、僕は何をしていたかといいますと
(誰も興味はないですよね...)
個人的に大切な行事が1つあったのですが、
それ以外はとにかく本を読んでいました。もう、おもしろい本ばかりで、
興奮の連続でした。
池田清彦先生の生物多様性や環境問題の怪しさの本、
養老孟司先生の住まいの話と、
いつもな感じの本(ちょっと失礼ですが敬意を表しています)、
伊坂幸太郎さんの小説などなど、とってもいい年末でした。




伊坂幸太郎さんの「オーデュボンの祈り」これはいいです。
コンビニ強盗に失敗した伊藤は目を覚ますと見知らぬ島に。
その島の名は「荻島」で、江戸時代より外との交流を遮断した島です。
そこには反対言葉しか言わない画家や、島のルールとして殺人を許された男、
未来を知り、喋ることのできる案山子に、体が大きくて動くことのできない女性と
不思議な人物が登場します。未来を知ることのできる案山子が殺されたことで
話しがどんどん展開していきます。
とにかく、これは読んでしまうと気がつくと最後まで読み終えてしまうそんな一冊です。




他にも養老先生の「旅する脳」という本の中に
こんなことが書かれてありました。
「仕事というのは社会のニーズだ。おまえさん向きの仕事を誰かが用意してくれる訳じゃない、そんなもんはいくら探したって見つからない(中略)そもそも”自分にあった仕事”といったって、その”自分”というのはなんなのか。自分はこうだと思い込んでいるだけかもしれないのだ」
こういうことをよく養老先生は仰られているので、
僕もこういう気持ちで日々過すようにしています。
僕を含めて、勘違いしている若い人は多いのかもしれませんね。
気をつけていきたいところです。



養老先生の本を読むとなんだか落ち着きます。
さて、まだまだ手元には読んでいない本がたくさんあります。
新年からは少し予定がありますので、
本を読む時間は少なくなりそうですが、
予定があるのもありがたいことなので、
しっかり楽しもうと思います。



あ、先ほど年納めランニングをしてきました。
心地良い疲労に包まれております。



それでは、来年もよろしくお願いします。
写真は先ほど庭先で撮りました。





2013年12月25日水曜日

最後の水曜日

とってもどうでもいい話なのですが、
今年一年、毎週水曜日に必ずブログを投稿しようという
目標を今年の1月にたてました。
最初の投稿だけ火曜日になってしまっているのですが、
とりあえず、今日の投稿でその目標をクリアすることができそうです。



何かを続けることがあまり得意ではない人間なので、
とにかくなにか続けることをしてみようと
思ったのがきっかけでした。
ネタがない時には困りました
(と言っても大した内容ではないですが)。
ないところからなんとかひねり出そうとする
作業もそれはそれで楽しい作業ではありました。
面倒なんですけどね。



途中、誰も読んでないのに、何してるんだろう。
なんて思うこともありましたが、日記みたいなものだ!
と割り切って毎週、投稿していました。



記事の投稿数でいえば今年よりも、2012年の方が
多いんですよね。今年は、毎週水曜日という
約束が先に決まっていたので、
書くことがなくても書いていました。
なんだかこの無理矢理な感じもおもしろかったです。



ね、だからなんなんだって感じですよね。
はい。本当にそう思います。
それだけのことですもんね.....



2013年12月18日水曜日

マイカントリーロード(勝手解釈)

奥田民生さんの歌に「マイカントリーロード」というものがあります。
民生さんの詞は具体的な表現が少ないように思います。
だから聴く側はいろいろな解釈をすることができます。
その日の心理状況なんかで解釈が変わるので、おもしろいんです。
で、マイカントリーロードの歌詞なんですが、
これです。



『浜辺は今でも まぶしく白い砂 日傘が必要さ

 風がふいて木が揺れ動いて メガネも飛びそうさ
 海岸通り いつものとおり

 おばけにびびった 空き家はもうない
 代わりにストアーさ
 ハープを吹いてムネがざわついて
 一人で飛び出した
 海岸通り 僕のストーリー

 OK行ってみよう ゆくえはどうかな
 あの大きな 海が見守っている

 OK行ってみよう 何をしようかな
 こののんきな 僕をながめている

 海岸通り 道の向こうに

 OK行ってみよう ゆくえはどうかな
 あの大きな 海は見守っている
 OK泣いてみよう 気分がいいかな
 まだのんきな 僕をながめている
 OK連れて行こう 君の無防備な
 その小さな 手をとり連れて行こう
 僕らを待っている 』


どうですか?
これだけで泣けちゃう人はとっても感性が豊かな人かもしれません。
これに絶妙な曲が合わさると、大変なことになります。
名曲です。



で、この詞はどんな意味だろう?この歌は何を歌っているのかな?
と僕なりに考えました。そして、今のところの結論がでました。



これ、過去にタイムスリップしてるんじゃないかと。



『浜辺は今でも まぶしく白い砂 日傘が必要さ
 風がふいて木が揺れ動いて メガネも飛びそうさ
 海岸通り いつものとおり

 おばけにびびった 空き家はもうない
 代わりにストアーさ』

この部分は故郷の海に久しぶりやってきて、
当時と変わっていない海を見ています(「いつものとおり」という表現が気になるのですが...)」。
しかし、当時の空き家はなくなっていて、代わりにストアーになっています。
そして、きっとここから変わっている故郷を感じていくのではないでしょうか。



『ハープを吹いてムネがざわついて
 一人で飛び出した
 海岸通り 僕のストーリー』

ここで、ハープ!なぜ?ハープなのでしょうか!
ということで強引にこのハープがタイムスリップの合図ではと解釈します。
もしくはタイムスリップではなく、回想かも。



『OK行ってみよう ゆくえはどうかな
 あの大きな 海が見守っている

 OK行ってみよう 何をしようかな
 こののんきな 僕をながめている』

さて、タイムスリップ完了です。ここの部分が過去の自分を
未来からきた自分が見ている場面ではないでしょうか。
『OK行ってみよう』で過去にきます!
『ゆくえはどうかな あの大きな 海が見守っている』
海の近くで、これからどうしようか迷っている過去の自分がいる。



『OK行ってみよう 何をしようかな
 こののんきな 僕をながめている』
これから何をしようかなと、のんきにしている過去の自分をながめている。
きっとのんきにしていながらも、この過去の自分は
いろいろと悩んでいるのかもしれません。



『海岸通り 道の向こうに』
未来の自分はそんな過去の自分を道の向こうで見ているのでは?
ポケットに手を突っ込んだりしながら。



『OK行ってみよう ゆくえはどうかな
 あの大きな 海は見守っている
 OK泣いてみよう 気分がいいかな
 まだのんきな 僕をながめている』
そんな過去の自分を見て、なんだか泣けてきた。でも気分はいい。
過去の自分はまだのんきにしている。



 『OK連れて行こう 君の無防備な
 その小さな 手をとり連れて行こう
 僕らを待っている 』
大丈夫だ!過去の自分!未来はいいぞ!楽しいぞ!
と未来の自分が過去の自分に投げかけている。

そんな解釈を勝手にしてみました。
いいですよね。民生さん。


マイカントリーロード視聴できるので、どんぞ。

2013年12月11日水曜日

三瓶小豆原埋没林

今度は男二人で三瓶を訪れました。
場所は三瓶小豆原埋没林。
ここには4000年前の巨木が展示してあります。

 約4000年前、三瓶山の火山活動により、三瓶山の北川で斜面崩壊が
発生したそうです。その時に発生した土砂が土石流になり、
巨木が立ち並ぶ森を襲いました。
その土石流は多くの木々をなぎ倒していったそうなのですが、
埋没林がある地点では勢いが衰えていたため、木は倒されずに
土石流に埋もれたそうです。また、小豆原は谷だったこともあり、
そこに土砂が流れ込み、谷はせき止められ、土砂のダムを形成したのだとか。
そこへ、火砕流が流れ込み、その次に水が流れ込み、その水が火山灰を
運んできたため、木は直立で深く埋もれたそうです。



また、地中に埋もれた木々は地下水に浸されていたそうです。
地下水には酸素がほとんど含まれないので、木を食べる小動物や
菌類が繁殖できません。そのため、木の劣化がかなり緩やかだったので、
現在まで、朽ちることがなく、
私たちが目にすることができているそうです。
土砂で埋もれたことや、地下水で守られていたこと
など様々な要因が重なったことで朽ちることがなかったそうです。



三瓶小豆原埋没林で出土した木の80%以上がスギで、
4000年前の三瓶山の北側はスギの巨木が主体の森林だったということです。
土砂の中から4000年前の虫の羽なんかも見つかっているみたいですよ。
おもしろいですよね。



幹の大きさにも驚くのですが、
4000年も前の木を実際に見ているというのが、なんとも不思議な感覚でした。
どう言っていいかは分かりませんが、壮大な歴史を
目の当たりにすると「自分ってちっさいな〜」
なんて思ってしまいます。
なんか、悩みとか、どうでもよくなってしまいます。


外に出るとこんな所も。
こういうの、落ち着きますね。



2013年12月4日水曜日

SPECな話

劇場版SPEC爻ノ篇を観てきました。
これで、ドラマ版SPEC→翔(SPドラマ)→天(映画)→零(SPドラマ)→結〜漸ノ篇(映画)→結〜爻ノ篇(映画)と続いたSPECの世界が終わりました。
ドラマ版から見続けていたものにとっては、
想像はしていましたが、思っていたよりも、寂しいです。
終わったんだなって。
で、内容がバレない程度に抽象的に、ほんのり具体的に結の感想をまとめておこうかと。



おもしろい!と思ったのは今回のお話がいろいろなお話と
リンクしているところなんです。
日本神話であったり、ガイア理論であったり、平行宇宙であったり...
と、僕もよく分からないので、ざらっと調べて、説明しますと
ガイア理論は地球と生物が相互に関係しながら環境を作り上げているさまを
地球が意志を持った一つの生命体のようだと考えるものという感じでしょうか。
映画でも「ガイアの意志」というセリフが出てきます。
また、ガイアとはギリシャ神話に出てくる女神の名前に由来しているそうです。
このガイアは世界の始まりから存在していた神であるとされています。
他にも、平行宇宙とはパラレルワールドとも言い、とっても簡単に言っちゃえば、
今の世界と平行して、全く違う世界が存在するというものです。



そんなことがSPECのお話に絡んできます。
漸ノ篇では先人類の末裔として卑弥呼が出てきます。
(この卑弥呼が物語により緊張感を持たせてくれます!!いい!)
日本神話には天照大神という神様が登場します。この神様は女神でもあります。
一説ではありますが、この天照大神は卑弥呼ではないのかという説も...
そして、天照大神の弟に須佐之男命(スサノオノミコト)がいます。
映画の中にセカイという白い男が出てくるのですが、(向井理さんですね)
この、セカイは卑弥呼のことを
「兄じゃ」と呼んでいます。卑弥呼は女性ですが、
セカイは卑弥呼の弟的な意味合いがあるとすれば、
須佐之男命とも解釈できるのでしょうか。
(こうやっていろいろ想像できるから、SPECはおもしろいです)
須佐之男命は多面的な性格であったとされているそうです。
大蛇を退治し英雄でもありながら、天界では凶暴な姿も見せています。
この理由には諸説あるそうですが、
善なのか、悪なのか、そんな姿とこのセカイの姿がまた被ったりもします。
セカイもまた掴めない存在です。



物語では、何かと戦ってはいるのですが、それが決して
善と悪の対立でないという印象を受けます。
どちらが良くて、どちらが悪いという話しではない。



西洋の神話や出来事、日本の神話なんかが絡んできたりしますが、
一つの世界の中では形は違えど、それらは全てリンクしているようでした。
なんだかここにメッセージがある気もしますよね。
何が善で、何が悪という訳ではなく、日本神話もあれば、西洋の話もある。
何が本当で、何が嘘ということでもないのかもしれません。
それをひっくるめて。という感じでしょうか。



長い時間をかけて、物語が成熟し、しっかりと完結しました。
作っている人達の思いが伝わってくる物語です。
あ、そういえばSPECの中で竜雷太さんが
「野々村光太郎係長待遇」を演じています。
その野々村さんの言葉に「心臓が息の根を止めるまで、真実に向かってひた走れ」
というものがあります。
大袈裟ではありますが、この言葉を何度も頭で唱えながら、
神戸マラソンを走りました...心臓が止まりそうになったら歩きますけどね。




あ、このお話はSPECという特殊な能力を持った人が登場し、
それが宇宙や世界、時代なんかと関係していくというお話です
今更ながら、ざっくりした説明で、すいません。
ですが、一番大切なのは人の思いであるということも言っているようでありました。
あ〜寂しいな〜。



2013年11月27日水曜日

三瓶山

ふと思い立って、三瓶山に行くことがあります。
行くと言っても山を登ったりするのでなく、
サヒメル周辺(北の原)を歩いたり、小腹が空いたらバーガーを食べたりします。
先日も、急に思い立って、行ってきました。

この時期の三瓶山は雪が積もっているんですね。

頂上の方は白くなっていましたし、サヒメル周辺にも雪がありました。
気温は9度くらいで、寒さも感じるのですが、
天気もよく、空気も澄んでいたので、気持ちよく過ごすことができました。



三瓶山の標高は1126mで、男三瓶、女三瓶、子三瓶、孫三瓶、太平山、日影山の

六峰が連なる山ということです。また活火山であり、その活動は
10万年前に始まったと考えられているそうです。
10万年前から活動しているというのは不思議な感覚ですね。
疲れないんですかね。


 

また「出雲国風土記」では国引き伝説に三瓶山が登場するそうです。
八束水臣津野命(ヤツカミズオミヅノミコト)という神様が
出雲の地をもう少し広くしようと考え、海の向こうから国を引っぱってきて、
出雲の国とくっつけてしまいました。
国を引っぱるために網を使ったのですが、引っぱってきた
国が出雲から離れないように南の山の中に大きな杭を立て、
そこに網をかけたそうです。その杭が今の三瓶山ということになるんだそうです。
引き寄せられた国は日御碕から美保関へ続く島根半島で、
園の長浜と夜見島は網ということになっています。
ちなみに出雲国風土記では三瓶山のことが「佐比売山(さひめやま)」
と表記されているそうです。(大山も杭みたいですよ)



近くにある三瓶山ですが、こうやって調べてみると
知らないことがたくさんあるんですね。
ちなみに三瓶バーガーもしっかり食べました。
あれ、たまりませんね。

2013年11月20日水曜日

神戸マラソン2013

11月17日に行われた神戸マラソン2013に参加してきました。


まずは前日にランナー受付です。受付会場の神戸国際展示場のいたる所にこのような手描きの応援横断幕がありました。これは嬉しかったですね〜。


そして、なんと、ゼッケンと一緒に素敵なお手紙も頂きました。地元の小学5年生が書いてくれたものです。これは気持ちが盛り上がりますね!ありがとうYくん!


さあ、そしてマラソン本番です。17日の神戸は朝から天気もよく、気温も高めで気持ちよくスタートすることができました。スタート地点には有森裕子さんと陸上の朝原さんがおられました。有森さんの高めのテンションにこちらまで気持ちが高ぶり、スタートすることができました!



 全体的に道幅が狭いコースでしたが、それはそれで楽しめましたよ。


 11㎞地点の須磨浦公園から見える海です。ここで10分程トイレ休憩をしました。しかし、実はこの時点ですでに左膝を痛めていました。なんなら6㎞地点で痛みがでていたのです。


目標としていたタイムではゴールできないかも...膝も痛い....そんなことを早々と感じていましたが、そんなことばかり気にしても楽しくないので、楽しく走ることを途中からは心がけました。



な、なんと16㎞地点だったでしょうか、あの一本下駄弁慶さんを目撃しました!突然だったので興奮してしまい、しばらく勝手に並走させてもらいました。これで完走だなんて凄すぎます!!


18㎞地点ぐらいの舞子公園付近で折り返しです。
もう、この時点でだんだん走れなくなっていきます。早すぎです。情けないです。


写真を撮る余裕もなくなってきました。でも、走ったり、歩いたりの繰り返しなので、撮影はできるんですよね。


34㎞地点、もうほとんど歩いています。
この近くにお手紙をくれたYくんの通う小学校がありました!!会ったこともないYくんですが、その小学校の前を通過した時にはYくんに応援してもらっている気がしました。


35㎞地点、相方さんからの差し入れ。これにも助けられました。





 39㎞地点の神戸学院大学前です。もう、34㎞地点くらいから、何を見ても泣けてきたのですが、ここはピークでした。船が水を噴かせながら何度も旋回し、ランナーを応援してくれていたんです。もう、それを見て、「あ〜船まで応援してくれてる」と思ったら涙が止まりませんでした。


沿道でも多くの方が応援してくださいました!


ゴール前にはあの有森裕子さんが立っておられ、ランナーを励ましながら、ハイタッチをしてくださっていました。僕もハイタッチすることができ、最後にパワーを頂きました!
そして、なんとかゴール!!タイムは6時間16分07と東京マラソンの時より、16分も遅いゴールでした。まだまだ修行が足りません!次こそは5時間台を目指します!



神戸マラソンでも本当に多くの方が沿道で応援してくださり、スタッフの方も絶えず応援の声をかけてくださいました。それが、本当に力になり、そして励みになり、嬉しくなりました。みなさんの応援を背に走ることができるというのがマラソン大会の醍醐味の一つなのかもしれません。とにかく、その声援に、感情は不安定な僕はウルウルしっぱなしでした。思うような走りはできませんでしたが、大会に参加でき、無事に完走することができて良かったです。やっぱり大会はいいですね!

2013年11月13日水曜日

睡眠

睡眠って不思議だなと思う時があります。
不思議というより、奥が深いと言ってしまった方がいいのかな〜。



で、いきなりなんですが。
だいたい、どのぐらいの時間、眠るのがいいのでしょうか。
きっと、それは人それぞれなんだとは思うのですが、
僕は最低でも6時間は眠りたいなと心がけています。
いやいや心がけるようになりました。
ん〜意識するようになりました。かな。
というのも僕は、あまり睡眠を大切に考えていなかったんです。
まだしっかりと「大切にしている」とは言えないのですが。



どうして、睡眠を大切にしていなかったのかといいますと...
たぶん、それはそんなに寝なても大丈夫だったからです。
他の人と比べると、必要な睡眠時間は短い方だと思います。
だから、遅くまで起きていることがほとんどでした。
でも、最近、睡眠時間が短いと、どうも調子良くない気がするんです。
ほんのささないな変化なのですが、なんか気持ちが悪い。
気持ち良く動くことができないんです。
そんなこともあって、「こりゃ寝ないといかんぞ」と
思い始めてきました。



それで最低でも6時間睡眠。という目標を立てています。
もちろん、自分に合った睡眠をとることができれば、
それなりに快調に過ごすことができるんだと思います。
と同時に「○○時間寝たんだから大丈夫」というイメージみたいなものが
働くんだと思います。
それはイイ意味でもワルイ意味でも。
6時間寝たから大丈夫!と思えれば、元気に過ごせるかもしれない。
それは本来の体調を少しだけ無視した覚醒とも呼べるのでしょうか。
そればかりではダメですが。
「これくらい寝たから大丈夫」も必要だし、
しっかりと体と向き合って、眠ることも大切なんだろーなと思ったりです。 

2013年11月6日水曜日

相手がいて

自分で言うのもなんですが、練習では上手くできたり、
反応できたりと、いい動きをする時もありました。
「おーこれはいい感じだな」と思うこともありました。
だけど、本番ではダメなんですよね。全然、動けない。
練習でやってきたことを出せずにいつも終わっていました。



練習では、相手っていうのはいつもの相手なんですよね。
どう動いてくるのかもう、ほとんど分かってる。
だから、その辺のことを考えて、練習してなかったんです。
その辺っていうのは相手のことです。
僕の練習は「相手がいての練習」ではなかったんですよね。
相手はいつもの相手だから、特に変化がない。
だから、こちらも自分のペースで練習ができる。
ほとんどの時間を自分を見て練習してしまっていたんです。



そんなもんですから、いざ、本番で、
ほとんど知らないような人と相対することに慣れていないんです。
慣れだけじゃなく、そういう意識で普段から練習していないから、
相手に対応した動きがなかなかできない。
だから、あらら…となっちゃう訳です。



上手い人、強い人はそこがしっかりしているんだと思います。
相手を見て、自分がどう動くべきか、知っているし、それを常に考えている。
相手がいて、自分がある。
そういう人は強いです。
強かったです。
え?なんの話かって?
はい。これ、剣道の話です。
自分の現役時代を振り返って、どうして勝てなかったのかを思い出してみたんです。
なんだか、剣道だけの話ではない、気がしてきました。 

2013年10月30日水曜日

続その男、気まぐれにつき


その男、気まぐれにつきの続編であります)
僕は彼の召使いではありません。
それは断じて違います。じゃあ友達かと言われれば、
ん〜ちょっと違う。
違わないんだけど、はまっていないというか。
つまり、定義できないのです。
よく分からない。だからと言って定義する気にもなれませんし、
する必要もないのだろうと思います。
そんな妙な関係です。はい。本当に妙だと思います。



そんな彼ですが、あまり人と関わるのが得意ではないように見えます。
他人である僕が彼の性格を「こうだ」と言うことはできませんので、
あくまでもそう、見えるということです。
人と関わるのが好きではないのかもしれません。
彼を見ていると、人との間に一定の線をひいているように見えます。
私以上に彼に対して深入りした人間を私は知りません。
しかし、その私もまた、そこまでの深入りはしていない。
そこにも何かがあります。ですが、
それはあっていいものなんだろうと思います。
彼は「そういう人」です。彼との関係はそれでいいんです。



そういう印象だから、
彼からは人の生臭さみたいなものはあまり感じませんでした。
何を考えているかよく分からない人間です。
だって、言わないんですから。本当に言わないんですよ。
自分のこと。ずるいくらいに。
もしかすると彼自身の器用さが関係しているのかもしれません。
彼自身も気がついていないくらい、
人との間にうまく線を引けるんじゃないでしょうか。



そんな男が今、泥臭く、生臭く動いています(たぶんだけどねー)。
人がたくさんいる大きな街で。
実際、近くで見ている訳ではないので、なんとも言えませんが、
泥臭く、生臭くあってほしいとも思います。



彼以外にも、もう一人おもしろい男がいます(いきなり登場)。
自分の意志は見せないように、さも意志などないように生きながら、
実はしっかりとした大きな柱のようなものを持っている。そんな人間です。



彼達をとても尊敬しています。
僕にないものをたくさん持っているからです。
だからといって、彼らは人の持っている物を欲しがりません。
そこが憎いぐらいにいいのです。
僕よりも何倍も大きな人達です。

2013年10月28日月曜日

第2回島根顔マラソン

10月27日に行われた「第2回島根顔マラソン」に参加しました。
ほぼ9時に松江駅をスタート。開始直前に盆氏と地図を見ながら
先導役をすることが決まりました。

(クリームパンみたいな足が僕です)



前半は快調で、地図を片手にああでもない、こうでもないと言いながら先導をしていました。そんな感じが楽しかったのを覚えています。


まだまだ快調です。



始めて会った方もおられ、その方達と一緒に走っているということが時折、とても不思議に感じられました。


このパン屋さんで待望のカレーパンを頂きました。これは、美味しかったな〜。
しかし、この前あたりから足に痛みを感じはじめ、徐々に余裕がなくなってきました。
ここから、先導もできなくなっていきます。


ついに宍道湖!足は痛かったですが、心の中では「あ〜宍道湖だ〜」とテンションは上がっておりました。


顔マラソンも終盤、この頃にはみなさんについていくことができなくなり、ご迷惑をおかけしながら、なんとか足を進めていました(亀のように)。進みが遅くなり、苦痛な顔をしている僕に温かい言葉をかけていただいたり、差し入れをしていただいたりと、何度も励ましてくださいました。その励ましがとっても、とっても嬉しかったです。みなさんの足を止めることも何度もありました。それでも、嫌な顔をせずに励ましてくださるみなさんの温かさに感動してしまいました。



そして、足を引きずるようにしてなんとか完走することができました。
初めての顔マラソン、顔を描くおもしろさはもちろんですが、一緒に走ってくださった方々の温かさも感じたマラソンになりました。力不足でご迷惑ばかりおかけして、申し訳ありませんでした。そして、ありがとうございました!!




顔もちゃんと描けていました!!



マラソン終わり...足...バキバキになっちゃってました。
でも、楽しかったですし、とっても充実した時間でした。
(自分に足りないのは「気持ち」だなと感じる機会にもなりました)




2013年10月23日水曜日

ちょっことした水曜どうでしょう論

「水曜どうでしょう」という番組をご存知の方も多いと思います。
「水曜どうでしょう」がどのような番組であるかという説明は省きまして、
どうして、この番組が好きなのかということを
ちょっとだけ、お話したいと思います(誰に頼まれもせずに...)。



この番組を見ていて、湧き起こる感情があります。
それは「癒される」とか「ほっとする」というものです。
なぜなんでしょうか。おっさん4人がくだくだ文句を言いながら、
車をひたすら運転していたり、
ひたすらカブを運転している大泉、鈴井両氏を映していたり、
うなぎのエサになるカエルを捕まえていたりするそんな姿に
なぜか、癒されるんです。
それは日常の中にある仲の良い友人とのくだらない
会話や時間を思い出すからなのかもしれません。
お互いにお互いを知った者同士の会話で盛り上がるのは、
お互いにしか通じない様な内輪の話だったりします。
それがどうでしょうの中にはあるんです。
見ている側とTVの中の4人は昔からよく知っている同士のような感覚になります。
あの感覚が心地良いから、癒されたり、ほっとするのかもしれません。



そして、なによりおっさん4人(愛を込めてこう呼ばせてください)が生み出す絶妙な間が
たまらなくいいのです。4人は自然体で画面に登場します。
TVということはほとんど意識していないようです。
ですが、4人ともなんとかおもしろくしてやろうという姿があります。
それは視聴者に対するいい意味での自慢にも見えてきます。
「俺たちはこんなおもしろいことやっているんだぜ」というような。
でも、それがいいんです。
だって、視聴者と4人はよく知った仲なんですから。
なんなら友人なのですから。
場を共有しているのですから。
見ているこちら側も4人のおもしろくしてやろう戦法にまんまとはまっちゃいます。
もう、それは自らはまりにいくようなスタイルです。
それが4人が生み出す絶妙な間にはあります。
言葉選びやイントネーション、罵り合い、ぶつぶつとつぶやく愚痴、
全てが計算されているようで、されていない。
されていないようで、されている。まさに絶妙の域なのです。
と、だらだらと言ってはキリがないので、このくらいでやめておきます。



今年、そんな「水曜どうでしょう」の面々が久しぶりに旅に出ました。
すでに北海道では、新作が放送されています。
全国の放送局でも順次放送が決まっています。
我が地域での放送はいつになるのか、首を長くして待っています!

2013年10月16日水曜日

バーガーフェスタ

先日、大山で行われた「とっとりバーガーフェスタ」へ行ってきました。
このバーガーフェスタは今年で5回目を迎えるそうです(バーガーは38種類、2日間の来場者数は約5万4千人)。「食のみやこ・鳥取」の実体作りとしてスタートしたこのバーガーフェスタは「鳥取県をPRしたい」という思いからスタートされたそうです。



「私たちのこの事業は商業イベントではありません。地域おこしの事業ですと胸を張って言いたい。何より嬉しいのはそんな我々の思いを理解し、地元をPRしたい全国の出展者が理解し、参加してくれていること...(略)地域に対する愛情と誇りを1個のバーガーに詰め込み、ご当地バーガーの聖地・鳥取で日本一のご当地バーガーの座を目指し、当日は精いっぱいパフォーマンスをされます。ぜひ来場のみなさまは、そうした提供する『人』にもご注目いただき...」ということを実行委員長の柄木さんは仰られています。



その「人」を感じることができたのが「奥日野きのこのコンフィーバーガー」のお店でした。お肉を焼くのに時間がかかるということで、お店の方とお話をすることができました。元々お店をしている人が集まっている訳ではないので、手探りで慣れない作業をしているとのことでした。一日のバーガーの量もそんなに多くは作れないのですが、なんとか頑張っていますということを言っておられました。たまたま、そのお店の人と話すことができたのですが、みなさん、とってもいい雰囲気の人達だったんですよね。
日野町産原木シイタケを使用したバーガーもきのこを引き立てる絶妙なバランスのバーガーでとても美味しかったです。
味と人、どちらも素晴らしかったので、迷わず投票させてもらいました(バーガーを一つ買うとビー玉を一つもらえます。それを自分がおいしいと思ったバーガーに投票して、順位を競います)。

(これは一位になった、あわじ島オニオンビーフバーガーです。一位が納得のおいしさです)

また、バーガーの購入はチケット制で1冊1000円(100×10枚綴り)のチケットを購入して、バーガーを受け取る形になっています。あまったチケットは地元の指定された店舗や施設でも使えるのだそうです。



食べる側の僕も楽しかったのですが、何よりお店側の人達も楽しんでいるように見えました。隣り同士の店舗で話をしたり、冗談を言い合ったり、一緒になってパフォーマンスをしたりと、競う形ではあるのですが、それだけではないものも感じることができました。だからこそ、そんな人達が作るバーガーを食べてみたいと思うし、味だけではない何かがバーガーから伝わる気がするんです。それは作っている人が「人」であり、また食べる側も「人」であるからこそ生まれる感情なのかもしれません。



2013年10月9日水曜日

ころころ〜

大きいと、小さい。
大きいのと、小さいの。
どっちがいいのかな。



なにが大きいのか。
なにが小さいのか。
それが分からないとどっちがいいかなんて分からないけどね。



大きい方がいいこともあるし、
大きくないとだめなこともあるだろうし。



小さい方がいいこともあるだろうし、
小さくないとだめなこともあるだろうし。



大きい方は欲張りだなんていう人もいる。
でも、大きくないとダメだなというものだってある。
小さくてはだめなんだ。



それは広いとか、狭いにも似ているのかもしれない。
大きければ大きいほどいいと思う。
それは邪魔にはならない。
その大きいは邪魔にはならない。

2013年10月2日水曜日

東京≒神戸

先日、2014年に行われる東京マラソンの抽選結果がメールで届きました。
今回の当選倍率も約10倍と前回とほぼ同じ倍率でした。
10倍って結構なものですよね。
そんな倍率の中、2013年の東京マラソンを走った私(自慢)。
当然、2014年の東京マラソンにもエントリーしました。
そして、結果は…..。
いや、今回は当たるはずがないと思っていたんです。
2年続けて東京マラソンなんて走れるはずがないと思っていましたよ。
でも、期待しちゃうんですよね。
もう一度走りたいという思いはあります。
わざわざ東京まで行って、走って、帰ってくる
というのもなかなかのものなのですが、
でも、それをする価値はあるんですよね。
とっても盛大な大会です。



あ、で、結果なんですが、はい。当然、落選です。
そう簡単に東京は私を呼んではくれませんでした。しくしく。
(どこかで受かるつもりでもいたので、余計にしくしく)



しかし、しかしです。実は11月に行われる神戸マラソンには当選していたのです。
こちらの倍率は4.5倍でありました。
まあ倍率を自慢しても仕方がないのですが、
運良く、当選して、神戸の地を走らせていただけるのですから、
しっかり楽しんでこようと思っています。
神戸の街を走れるのも楽しそうですよね。ワクワクします。
とりあえずの目標は初マラソンでもあった、
今年の東京マラソンのタイム(6時間33秒)を少しでも縮めることです。
なんなら5時間30分くらいで完走したいなと思っています。
でも、まずはしっかり楽しむことを大切にしたいと思います。
せっかく神戸まで行くんですから。
しかも、わざわざ走りに。


2013年9月25日水曜日

丁年人間の読書感想文②

今回の読書感想文は村上春樹さんの「TVピープル」という一冊です。
これは6つの短編小説が一冊にまとめられたものになります。
とにかく、どのお話も何が言いたいのかははっきりとは分かりませんでした。
でも、それがいいんじゃないかなと思える作品でした。
いくつか簡単に内容を説明します。



「TVピープル」というお話では、TVピープルという人間を縮小した
存在が日曜日の夕方、ある夫婦の家にやってきます。
そして、砂嵐だけを映すテレビを置いていきます。そのTVピープルは
少しずつ主人公の現実に侵入してきます。最後にはTVピープルから
奥さんはもう二度と帰ってこないということが告げられます。



「ゾンビ」というお話では、墓場を歩いていたカップルに
ゾンビが取り憑きます。という悪夢から覚めたと思ったら、
そこがまたも悪夢の世界だったという本当に短いお話です。
取り憑かれた描写も短い文章でおどろおどろしく表現されています。



「眠り」はある日突然眠れなくなった主婦のお話です。
17日間眠らずに過ごしていた主婦が眠りについてあれこれと考え、
深い闇の感覚に陥っていくような内容です(だと思います)。



一番印象に残ったのは「眠り」編です。
その中にこんな言葉が登場します。
「死とは、眠りなんかとはまったく違った種類の状況なのではないだろうかー
それはあるいは私が今見ているような果てしなく
深い覚醒した暗闇であるかもしれないのだ」
この感覚に似たものを僕も感じたことがあります。
じわっと染みてくる恐怖が伝わってきます。



物語全体になんとも言えない孤独や陰のようなものが
表現されているように思いました。
何が言いたいのかは分かりません。
分かろうとしましたが、分かりませんでした。
でも、なんだか分かるような気もします。
そんな不思議なお話です。 


2013年9月18日水曜日

丁年人間の読書感想文①

読んだ本の感想は別のサイトで簡単にまとめているのですが、
何冊かに一冊くらいは少し長く感想を綴ってみようかなと思っています。



ずっと気になっていた朝井リョウさんの「何者」を先日読みました。
物語の内容としては、就職活動中の大学生の現実とTwitter上での
姿の多面性を見事に表現した作品という感じでしょうか。



とにかく僕たち世代には痛いほど体に染みてくる内容です。
読みながら、朝井さん、読者をいじめるな〜と最初は思っていました。
意識の高い人、頑張っていることをアピールする人、
自分は周りとは違う人間なんだと発信する人、
そんな人達を「なに言ってんだよみんな」と自分はさも傍観者であり、
客観的な人間であるというスタンスをとりながら発信する人。
そんな人達が登場します。



Twitterをやっていて、こういう人に遭遇したり、
自分もそういう意識で発信したりしていることは
よくあることだと思います。
理想の何者かになったつもりで
、またなりたくて発信している。
また、「あ〜ああんなことになっちゃって」、
「バカだね〜」という傍観者意識もあったりして。
そんな誰もが経験のあるあまり突かれたくない部分を
見事にあぶり出し、えぐってくる内容です。
でも、誰にでもある経験なんだろうと思います
(だからっていいという訳ではありませんよね)。
ですが、行き過ぎると何か大切なものを見失ってもしまう。



現実の世界とTwitterでの世界、
傾き過ぎるのではなく、現実にスタンスを置きながら、
動いていくことを教えてくれるような内容だったのかな。



批判という内容ではなく、どちらかといえば
そんな若者に向けた激励の作品であるような気がします。
現実でしか、何者になれないんだそんなメッセージも聞こえてくるようでした。
これ、読んだ後に、しばらくいろいろ考えてしまいますよ。
ぜひ、機会がある方は書店や図書館へ(回し者ではありませんので)。

2013年9月11日水曜日

お世話になりました。

ある美容師さんがその職を離れることになりました。
僕はその美容師さんに長い間、お世話になっていたので、大変寂しい気持ちなのです。
いつものカットから、カラー、ちょっと挑戦的な髪型などなど
いろいろな相談にのってくれた方でした。
そして、それに応えてくれた方でした。



なにより、人柄が好きでした。
髪を切りに行くというよりは、話をしにいく。
という表現が正しいのかもしれません。僕の気持ちはそうでした。
いつまでも話をしたくなる方でした。そういう人っていいなと思います。
憧れます。だって、自分にはない部分ですから。



嘘でもいいんです。嘘でもいいから、
「あ〜分かります」って言ってもらえるって、やっぱり嬉しいものです。
自分を肯定してもらえるのは嬉しいです。
誤解を恐れずに言うならば、
「キャバクラに通うおっさんの気持ち」に似ているのかもしれません。
僕は少しだけ、その気持ちが分かる気がしています。
そういうお店に行ったことはないのですが、
きっと、疲れたおじさん達はそこで女の子たちに
自分を肯定してもらっているのではないのでしょうか。
それは、嬉しいことだと思います。



と、話が逸れてしまいました。



とにかく、僕はとてもいい美容師さんに出会うことができました。
その分、やはり、お別れは寂しいです。
ですが、それは単なる僕の感情です。
もう、その方は前をしっかり向いておられました。
さすがです。



僕はあの方に髪を切ってもらえて幸せでした。
いろいろな話もしました。
いい思い出です。
勤務最後の日に、お邪魔することもできて、よかったです。




さて、今後はどうしようかな。
とりあえず、SAMぐらい伸ばしてみようかな。髪の毛。
.....嘘です。



2013年9月4日水曜日

おしゃべり◯◯野郎

「おしゃべりくそ野郎」なんて言葉が一時期流行りましたよね。
あまり綺麗な言葉ではないのですが、なんだか気になっていました。
「おしゃべりくそ野郎」…..ん、俺じゃないか!!と。



ちょっと解体。
「おしゃべり」な「くそ野郎」なのか、
「おしゃべり」過ぎることで=「くそ野郎」なのか、
というように分けてみて、考えました。自分はどっちなのかと。
正直、分かりません(おしゃべりなくそ野郎だと大変です…)。
ただ、言えるのは「おしゃべり」であることは確実ということです。



ここで、こんなふうにだらだら打ち込んでいるのも、
「おしゃべり」が好きだからだと思うんです。
そうでなきゃ、誰も見ていない、こんな所に、
毎度、毎度、現れたりしませんよね。
(少し、悲しくなりましたけど)



おしゃべりしながら、自分の意見を言ったり、
相手の話を聞いたり、誰かを笑わせたり、笑わせてもらったり、
バカみたいなことを言ったり、バカみたいな話で盛り上がったり。
おしゃべりは誰かとじゃなきゃおもしろくありませんよね。



ただ、そんなおしゃべりで相手を不快にさせたり、
傷つけたりしてはいけませんね。
それは、本当に気をつけていこうと思っています。



それだと本当に「おしゃべりなくそ野郎」になってしまいます。
おしゃべりはいいけど、くそ野郎はいけません。



あ、それとたまには黙ってみるのもいいかもしれませんね。
「お静か野郎」になるのもいいのかも。
え?「そんなのなれっこないって?」
やってみなきゃ分かりませんよ。 

2013年8月28日水曜日

完全変態

タイトルだけを見ると断定された変な人。みたいですね。
「変態」というものがあります。
そっちの「ヘンタイ」ではなく、「変態」です。



変態とは、動物なんかがその成長過程で姿を変えることを指した言葉です。
幼虫がサナギになるあれです。
チョウチョなんかは卵が羽化して、幼虫になります。
そして、その幼虫がサナギになり、成虫(チョウチョ)になります。
この幼虫が成虫に姿を変えることを変態といいます。
DNAなんかは同じらしいのですが、全く姿の違うものになってしまいますね。



と、なるとチョウチョは変態をする生物ということになります。
卵→幼虫→サナギ→成虫と変態することを完全変態と呼びます。
カブトムシやクワガタムシ、ハチやテントウムシなんかは完全変態生物ですね。



完全があると不完全もやっぱりあるようで、
不完全変態というのもあります。
不完全変態はサナギにならずに幼虫から
そのまま成虫になる生物のことのようです。
例えば、セミやカマキリ、トンボなどです。



その他にも過変態とか、無変態というのもあるようです。
ちなみに人は「ヘンタイ」にはなれますが(ならない方がいいですが)、
変態はしませんね。
なんだか、すごいですよね。変態って。
姿が全く違うものになってしまいます。
僕なんかも、赤ちゃんの時と比べると変わりはしましたが、
姿はまあ、とりあえずは人でやってきています。



幼虫からサナギになるのも不思議ですが、
それがまたチョウチョやカブトムシになるんですよね。
いや、不思議です。
僕が、
あさってぐらいからブラット・ピットになるようなものだと思ったら、
こりゃ大変なことです。
ちなみになぜ、変態するのか詳しいことは分かっていないそうです。
きっと、必要があるから変態しているんだとは思うのですが...。
いや、そうでもないのかも...。
ん〜不思議だ。 変態。





2013年8月21日水曜日

あの人と、この人


あの人が言うことと、この人が言うこと。
あの人と、この人が同じことを言っていたとして、、
あの人の言うことの方が納得するとか、
あの人の言うことを信用するなんてことがあると思います。
あの人も、この人も同じことを言っているのにです。



この人にとっては、腑に落ちないこともあると思います。
腹も立ってしまうこともあるかもしれません。
だって、言っていることはあの人と同じなのに、
この人の言っていることは受け入れてもらえないのですから。



でも、それって、よくよく考えたら、いや、よくよく考えなくても、
あの人とこの人に違いがあるからなんですよね。
はっきりとした違いがあるんだと思います。
あの人の言うことが納得できるのは、あの人が
それまで積み上げてきた信頼とか、信用が
どーん!!と目の前にあるからなんですよね。
それはもしかしたら「人柄」というものでもあるのかもしれません。



で、反対に同じことを言っていてもこの人には、
あの人と違って、信頼とか信用がない。
なんなら人柄もあまり...という感じ。
そうなると、やっぱりこの人の言うことには誰も反応しなくなっちゃう。
いや、反応したくなくなるのかもしれません。



そう、思った時に、自分はどうなんだろう?と思ったんです。



「まだまだあの人にはなれていないな」と。
もしかしたら、「この人」に限りなく近いのかもしれない。
いや、近いのではなく、「この人」なんです。
そう思うと、今までの自分の様子が割と見えやすくなるような気がします



これでは、いけません。
あの人になっていかないといけません。



あの人とか、この人とか面倒な文章で、すいません。
あの人と、この人。あっちこっち、そっちこっちです。




2013年8月14日水曜日

ちょ〜びんかん

ちょーびんかんです。
いや、超敏感です。いやいや、腸敏感です(正確には”だそう”です)。



何が言いたいのかといいますと。どうやら僕、腸が敏感みたいなんです。
先日、大腸がん検査を受けました。
はい。お尻からカメラを入れる、あれです。
その時に、もう、それはそれは悶えました。苦しみました。
普通はそんなに苦しまないそうです。
その時にお医者さんに「君、腸が敏感だね」と告げられたのです。



「あ、俺って腸が敏感なんだ」と知らされたのです。
もう、そうなると「俺は腸が敏感」野郎になる訳ですよ。
なんか、こう、ちょっと気にしちゃうんですよね。
気にし過ぎちゃうんです。



で、最近、結構なストレスを感じることがあったんですが、
そのストレスがお腹にきたんです。
「あ、今、お腹が変になってる」というのを感じたんです。
以前と違うのは「お腹が痛いから」→「どうしたんだろ」じゃなくて、
「こういう理由だから」→「お腹が痛いんだ」になっちゃってたんです。
このパターンが何回があったんですよね。
気にし過ぎるからなんでしょうね。



でも、そんな時に思ったんです。
腸が敏感なのは、たぶん間違いない。
だったら、その腸を敏感じゃない方へ持っていくんじゃなくて、
自分の腸は敏感なんだと思う事にして、
その敏感な腸と付き合っていく方がいいのかな〜と。
その方が自然なのかなと。



「僕、腸敏感なんです!!」


2013年8月7日水曜日

サザンオールスターズ


サザンオールスターズが復活しました。
サザンと桑田さん。やっぱり違うんですよね。
サザンはサザンなんです。



僕がサザンと出会ったのは中学一年生の時です。
友人が購入した、サザンのベストアルバムから一気に火がつきました。
当時から比べると僕も変わりました。
一応、大人といわれる年齢にもなってきました。
そうなると、サザンを聴く気持ちも変わってきます。
で、思うのは、

サザンもまた変わっているんじゃないだろうかということなんです。



今回の新曲の中の「栄光の男」の詞にこんな言葉があります。
【生まれ変わってみても 栄光の男にゃなれない

 鬼が行き交う世間 渡り切るのが精一杯
 老いてゆく肉体は 愛も知らずに満足かい? 
喜びを誰かと 分かち合うのが人生さ/栄光の男】

この歌でどれだけの人が救われるでしょうか。
「それでいいんだ。それがいいんだ」と、
僕も救われた人の中の一人です。




サザンはあまりこういう歌を唄ってこなかったように思います。
いや、あるのはあったのですが、
ハッキリとそういう歌であるということは
言ってこなかったような気がするのです。
それが、少し変わってきている。と思っています。
そして、そのサザンの変化が自分の気持ちと、
ちょうどリンクしているような感覚になります。
その感覚が、たまらなく、サザンというグループを
僕の中へ強烈な印象で再登場させてくれました。



桑田さんが、サザンが「栄光の男」を歌い、

世の中の人が共感するのは、
みんな栄光という幻想を追うことに疲れてきて、
それが「どうも違うんじゃないか」ってことに
気がついてきたからなんじゃないのかな。
桑田さんの歌が、思いが、先人の知恵だとしたら、
僕は素直にそこから学ぶ姿勢を大事にしたいと思います。


若いとか若くないとかではなく、幻想を追うことより、

栄光の男になろうとすることより、
大切にしなければいけないものがあるのかなと思います。



(勝手に作ってしまいました)

2013年7月31日水曜日

ふぇいすぶっくtokaついったーtoka

「この前なんか見たわ。投稿してたもん」、
「なんだかいろいろなことやってるみたいだね」、
「楽しそうだよね。幸せそうだよね。」
ちょっと気をつけないといけないなと思ったりします。
これ、FacebookとかTwitterというSNSから生まれてくるような言葉です。



結構な人がSNSを使っています。僕も使っています。
使っているからこそ、いいことも分かりました。
その分のあまりよくないことも感じてきました。
SNSから流れてくるのは情報です。
友達やフォローしている人が何をしたのか、何に興味があるのか、
どんな人物なのかというような情報が流れてきます。
それらの情報ってSNSがなければ知らなかったもの
ということがほとんどなんじゃないでしょうか。



だからこそ、どちらかといえば、
そんなに必要でもない情報だったりします。
「知り合いの情報」ということにフォーカスすると、
それはちょっと前までは、人伝えに聞く程度のものだったんだろうと思います。
その時の情報の速度や量はそんなに大したものではなかったはずです。
直接、話をしなければそんなに詳しい内容も分からなかったんだろうと思います。
でも、今はちょっと違ってきています。
知り合いの情報はスピーディーかつ大量に直接会わなくても、
仕入れることができるようになりました。
「仕入れる」訳ですから自分の意志です。
でも、これをうまくコントロールするのは少し難しい気もしています。
人に「知りたい」という欲求があるとするとそんなふうに思ってしまいます。



では、スピーディーかつ大量に知り合いの情報が入るとどうなるのか。
ぼくは「ペースが乱れる」ということになるんじゃないかと思うようになりました。
「あの人はこんなことしたんだ。いいな〜」、
「今そんなことしているんだ。私もやりたいな〜」
と思うことが増えると自分のペースは乱れます。
人を羨ましく思う気持ちは多くの人が持っている気持ちだと思います。
その気持ちをうまくコントロールできればいいのですが、
SNSの中でその「羨ましく思う対象」がたくさん存在してしまうと
うまく気持ちをコントロールするのが難しくなるんじゃないかと思うんです。



「だったら見なければいいじゃん」、
「そもそもそんなものやめてしまえばいいんだよ」ということも分かります。
ですが、厄介なのが「知りたい」という欲求なのです。
簡単にその知りたいという欲求を満たせてしまうので、厄介なのです。



知り合いには知り合いのペースがあります。
思いがあります。順序があります。
それは見ている側の人とは違うものです。
結果だけを見て、気持ちを乱してしまうとペースも乱れてしまいます。



まあ自分に自信があればあまり乱れることもないのかもしれませんね。 
これ、ちょっと気をつけたいなと思います。
あっ、逆の立場を忘れていましたが、見る側としだけではなく、
情報を発信する側としても気もつけないといけないことはたくさんありますね。



これはあくまでも僕の話です。







(友人が適当に描いてくれました)

2013年7月24日水曜日

夜、月を見ることがありますか。
僕はたまにじっくり見ることがあります。
特に、何か目的がある訳ではないのですが、気が付けば見上げています。
月を見ながら「昔の人は月を見て、いろいろなことを考えたんだろうな~」
なんて思ったりもします。
「なんだか今日の月は怪しいな~」とか
「ん?おお?いつもより月が大きいぞ」とか。



都会に行けばたくさんビルがあります。明かりもたくさんあります。
その中での月の存在ってどうなんですかね。
夜の主役という感じではないのかもしれません。
田舎にはあまり高いビルもなく、遅くまで明かりがあることもそんなにありません。
少し昔なら、(大昔はもっと)夜になれば明かりさえもなかったでしょうね。
そんな夜の主役はやっぱり月だったんじゃないのかなと思うんです。
どうしても目がいっちゃいますよね。
だって明るいものは月しかないんですから(言い過ぎかな)。



きっと月を見ながらいろいろと想像していたと思うんです。
良いことも悪いことも。
月の満ち欠けをもとに決められた太陰暦なんかはまず、
月を見るってことがあって生まれたんじゃないのかな。
漁師の人なんかも月を見ながら、漁の良し悪しを予測してみたり。
とにかく昔の人はきっと今の人より月を見る機会が多くて、
多いからこそ、そこからいろいろなことを感じっていたんだろうなと思ったんです。



なんだか、それっていいな~と。
自分都合で解釈しているんだけど、それは月の形や雰囲気から生まれているものであり、
結局は月都合のような。
月都合だと、「あ~おいらって小さいな~」なんて思いやすいんじゃないですかね。
「控えめ」って言うのかな。
その控えめがいいんですよね。




ずっと見てたから、「なんか行ってみたいな」って気持ちになったのかもしれませんね。