2013年12月31日火曜日

2013年の終わりに

2013年も終わろうとしています。
今年もいろいろな発見があったり、たくさん反省もした1年でした。
反省とか気づきは1年で区切るものでもないですね。
ずっと意識していきたいと思っています。



で、2013年の年末、僕は何をしていたかといいますと
(誰も興味はないですよね...)
個人的に大切な行事が1つあったのですが、
それ以外はとにかく本を読んでいました。もう、おもしろい本ばかりで、
興奮の連続でした。
池田清彦先生の生物多様性や環境問題の怪しさの本、
養老孟司先生の住まいの話と、
いつもな感じの本(ちょっと失礼ですが敬意を表しています)、
伊坂幸太郎さんの小説などなど、とってもいい年末でした。




伊坂幸太郎さんの「オーデュボンの祈り」これはいいです。
コンビニ強盗に失敗した伊藤は目を覚ますと見知らぬ島に。
その島の名は「荻島」で、江戸時代より外との交流を遮断した島です。
そこには反対言葉しか言わない画家や、島のルールとして殺人を許された男、
未来を知り、喋ることのできる案山子に、体が大きくて動くことのできない女性と
不思議な人物が登場します。未来を知ることのできる案山子が殺されたことで
話しがどんどん展開していきます。
とにかく、これは読んでしまうと気がつくと最後まで読み終えてしまうそんな一冊です。




他にも養老先生の「旅する脳」という本の中に
こんなことが書かれてありました。
「仕事というのは社会のニーズだ。おまえさん向きの仕事を誰かが用意してくれる訳じゃない、そんなもんはいくら探したって見つからない(中略)そもそも”自分にあった仕事”といったって、その”自分”というのはなんなのか。自分はこうだと思い込んでいるだけかもしれないのだ」
こういうことをよく養老先生は仰られているので、
僕もこういう気持ちで日々過すようにしています。
僕を含めて、勘違いしている若い人は多いのかもしれませんね。
気をつけていきたいところです。



養老先生の本を読むとなんだか落ち着きます。
さて、まだまだ手元には読んでいない本がたくさんあります。
新年からは少し予定がありますので、
本を読む時間は少なくなりそうですが、
予定があるのもありがたいことなので、
しっかり楽しもうと思います。



あ、先ほど年納めランニングをしてきました。
心地良い疲労に包まれております。



それでは、来年もよろしくお願いします。
写真は先ほど庭先で撮りました。





2013年12月25日水曜日

最後の水曜日

とってもどうでもいい話なのですが、
今年一年、毎週水曜日に必ずブログを投稿しようという
目標を今年の1月にたてました。
最初の投稿だけ火曜日になってしまっているのですが、
とりあえず、今日の投稿でその目標をクリアすることができそうです。



何かを続けることがあまり得意ではない人間なので、
とにかくなにか続けることをしてみようと
思ったのがきっかけでした。
ネタがない時には困りました
(と言っても大した内容ではないですが)。
ないところからなんとかひねり出そうとする
作業もそれはそれで楽しい作業ではありました。
面倒なんですけどね。



途中、誰も読んでないのに、何してるんだろう。
なんて思うこともありましたが、日記みたいなものだ!
と割り切って毎週、投稿していました。



記事の投稿数でいえば今年よりも、2012年の方が
多いんですよね。今年は、毎週水曜日という
約束が先に決まっていたので、
書くことがなくても書いていました。
なんだかこの無理矢理な感じもおもしろかったです。



ね、だからなんなんだって感じですよね。
はい。本当にそう思います。
それだけのことですもんね.....



2013年12月18日水曜日

マイカントリーロード(勝手解釈)

奥田民生さんの歌に「マイカントリーロード」というものがあります。
民生さんの詞は具体的な表現が少ないように思います。
だから聴く側はいろいろな解釈をすることができます。
その日の心理状況なんかで解釈が変わるので、おもしろいんです。
で、マイカントリーロードの歌詞なんですが、
これです。



『浜辺は今でも まぶしく白い砂 日傘が必要さ

 風がふいて木が揺れ動いて メガネも飛びそうさ
 海岸通り いつものとおり

 おばけにびびった 空き家はもうない
 代わりにストアーさ
 ハープを吹いてムネがざわついて
 一人で飛び出した
 海岸通り 僕のストーリー

 OK行ってみよう ゆくえはどうかな
 あの大きな 海が見守っている

 OK行ってみよう 何をしようかな
 こののんきな 僕をながめている

 海岸通り 道の向こうに

 OK行ってみよう ゆくえはどうかな
 あの大きな 海は見守っている
 OK泣いてみよう 気分がいいかな
 まだのんきな 僕をながめている
 OK連れて行こう 君の無防備な
 その小さな 手をとり連れて行こう
 僕らを待っている 』


どうですか?
これだけで泣けちゃう人はとっても感性が豊かな人かもしれません。
これに絶妙な曲が合わさると、大変なことになります。
名曲です。



で、この詞はどんな意味だろう?この歌は何を歌っているのかな?
と僕なりに考えました。そして、今のところの結論がでました。



これ、過去にタイムスリップしてるんじゃないかと。



『浜辺は今でも まぶしく白い砂 日傘が必要さ
 風がふいて木が揺れ動いて メガネも飛びそうさ
 海岸通り いつものとおり

 おばけにびびった 空き家はもうない
 代わりにストアーさ』

この部分は故郷の海に久しぶりやってきて、
当時と変わっていない海を見ています(「いつものとおり」という表現が気になるのですが...)」。
しかし、当時の空き家はなくなっていて、代わりにストアーになっています。
そして、きっとここから変わっている故郷を感じていくのではないでしょうか。



『ハープを吹いてムネがざわついて
 一人で飛び出した
 海岸通り 僕のストーリー』

ここで、ハープ!なぜ?ハープなのでしょうか!
ということで強引にこのハープがタイムスリップの合図ではと解釈します。
もしくはタイムスリップではなく、回想かも。



『OK行ってみよう ゆくえはどうかな
 あの大きな 海が見守っている

 OK行ってみよう 何をしようかな
 こののんきな 僕をながめている』

さて、タイムスリップ完了です。ここの部分が過去の自分を
未来からきた自分が見ている場面ではないでしょうか。
『OK行ってみよう』で過去にきます!
『ゆくえはどうかな あの大きな 海が見守っている』
海の近くで、これからどうしようか迷っている過去の自分がいる。



『OK行ってみよう 何をしようかな
 こののんきな 僕をながめている』
これから何をしようかなと、のんきにしている過去の自分をながめている。
きっとのんきにしていながらも、この過去の自分は
いろいろと悩んでいるのかもしれません。



『海岸通り 道の向こうに』
未来の自分はそんな過去の自分を道の向こうで見ているのでは?
ポケットに手を突っ込んだりしながら。



『OK行ってみよう ゆくえはどうかな
 あの大きな 海は見守っている
 OK泣いてみよう 気分がいいかな
 まだのんきな 僕をながめている』
そんな過去の自分を見て、なんだか泣けてきた。でも気分はいい。
過去の自分はまだのんきにしている。



 『OK連れて行こう 君の無防備な
 その小さな 手をとり連れて行こう
 僕らを待っている 』
大丈夫だ!過去の自分!未来はいいぞ!楽しいぞ!
と未来の自分が過去の自分に投げかけている。

そんな解釈を勝手にしてみました。
いいですよね。民生さん。


マイカントリーロード視聴できるので、どんぞ。

2013年12月11日水曜日

三瓶小豆原埋没林

今度は男二人で三瓶を訪れました。
場所は三瓶小豆原埋没林。
ここには4000年前の巨木が展示してあります。

 約4000年前、三瓶山の火山活動により、三瓶山の北川で斜面崩壊が
発生したそうです。その時に発生した土砂が土石流になり、
巨木が立ち並ぶ森を襲いました。
その土石流は多くの木々をなぎ倒していったそうなのですが、
埋没林がある地点では勢いが衰えていたため、木は倒されずに
土石流に埋もれたそうです。また、小豆原は谷だったこともあり、
そこに土砂が流れ込み、谷はせき止められ、土砂のダムを形成したのだとか。
そこへ、火砕流が流れ込み、その次に水が流れ込み、その水が火山灰を
運んできたため、木は直立で深く埋もれたそうです。



また、地中に埋もれた木々は地下水に浸されていたそうです。
地下水には酸素がほとんど含まれないので、木を食べる小動物や
菌類が繁殖できません。そのため、木の劣化がかなり緩やかだったので、
現在まで、朽ちることがなく、
私たちが目にすることができているそうです。
土砂で埋もれたことや、地下水で守られていたこと
など様々な要因が重なったことで朽ちることがなかったそうです。



三瓶小豆原埋没林で出土した木の80%以上がスギで、
4000年前の三瓶山の北側はスギの巨木が主体の森林だったということです。
土砂の中から4000年前の虫の羽なんかも見つかっているみたいですよ。
おもしろいですよね。



幹の大きさにも驚くのですが、
4000年も前の木を実際に見ているというのが、なんとも不思議な感覚でした。
どう言っていいかは分かりませんが、壮大な歴史を
目の当たりにすると「自分ってちっさいな〜」
なんて思ってしまいます。
なんか、悩みとか、どうでもよくなってしまいます。


外に出るとこんな所も。
こういうの、落ち着きますね。



2013年12月4日水曜日

SPECな話

劇場版SPEC爻ノ篇を観てきました。
これで、ドラマ版SPEC→翔(SPドラマ)→天(映画)→零(SPドラマ)→結〜漸ノ篇(映画)→結〜爻ノ篇(映画)と続いたSPECの世界が終わりました。
ドラマ版から見続けていたものにとっては、
想像はしていましたが、思っていたよりも、寂しいです。
終わったんだなって。
で、内容がバレない程度に抽象的に、ほんのり具体的に結の感想をまとめておこうかと。



おもしろい!と思ったのは今回のお話がいろいろなお話と
リンクしているところなんです。
日本神話であったり、ガイア理論であったり、平行宇宙であったり...
と、僕もよく分からないので、ざらっと調べて、説明しますと
ガイア理論は地球と生物が相互に関係しながら環境を作り上げているさまを
地球が意志を持った一つの生命体のようだと考えるものという感じでしょうか。
映画でも「ガイアの意志」というセリフが出てきます。
また、ガイアとはギリシャ神話に出てくる女神の名前に由来しているそうです。
このガイアは世界の始まりから存在していた神であるとされています。
他にも、平行宇宙とはパラレルワールドとも言い、とっても簡単に言っちゃえば、
今の世界と平行して、全く違う世界が存在するというものです。



そんなことがSPECのお話に絡んできます。
漸ノ篇では先人類の末裔として卑弥呼が出てきます。
(この卑弥呼が物語により緊張感を持たせてくれます!!いい!)
日本神話には天照大神という神様が登場します。この神様は女神でもあります。
一説ではありますが、この天照大神は卑弥呼ではないのかという説も...
そして、天照大神の弟に須佐之男命(スサノオノミコト)がいます。
映画の中にセカイという白い男が出てくるのですが、(向井理さんですね)
この、セカイは卑弥呼のことを
「兄じゃ」と呼んでいます。卑弥呼は女性ですが、
セカイは卑弥呼の弟的な意味合いがあるとすれば、
須佐之男命とも解釈できるのでしょうか。
(こうやっていろいろ想像できるから、SPECはおもしろいです)
須佐之男命は多面的な性格であったとされているそうです。
大蛇を退治し英雄でもありながら、天界では凶暴な姿も見せています。
この理由には諸説あるそうですが、
善なのか、悪なのか、そんな姿とこのセカイの姿がまた被ったりもします。
セカイもまた掴めない存在です。



物語では、何かと戦ってはいるのですが、それが決して
善と悪の対立でないという印象を受けます。
どちらが良くて、どちらが悪いという話しではない。



西洋の神話や出来事、日本の神話なんかが絡んできたりしますが、
一つの世界の中では形は違えど、それらは全てリンクしているようでした。
なんだかここにメッセージがある気もしますよね。
何が善で、何が悪という訳ではなく、日本神話もあれば、西洋の話もある。
何が本当で、何が嘘ということでもないのかもしれません。
それをひっくるめて。という感じでしょうか。



長い時間をかけて、物語が成熟し、しっかりと完結しました。
作っている人達の思いが伝わってくる物語です。
あ、そういえばSPECの中で竜雷太さんが
「野々村光太郎係長待遇」を演じています。
その野々村さんの言葉に「心臓が息の根を止めるまで、真実に向かってひた走れ」
というものがあります。
大袈裟ではありますが、この言葉を何度も頭で唱えながら、
神戸マラソンを走りました...心臓が止まりそうになったら歩きますけどね。




あ、このお話はSPECという特殊な能力を持った人が登場し、
それが宇宙や世界、時代なんかと関係していくというお話です
今更ながら、ざっくりした説明で、すいません。
ですが、一番大切なのは人の思いであるということも言っているようでありました。
あ〜寂しいな〜。