2015年11月23日月曜日

仲間

みんなのことを仲間だと思えたら、
相手を批判したり、否定したりすることなんて
なくなるんじゃないかな。
そんなことしたくなくなるし、する意味なんてないよね。


2015年10月12日月曜日

天空の蜂とバクマン。

ここ最近で二本の映画を観ました。
一つが「天空の蜂」で、もう一つが「バクマン。」です。
天空の蜂の原作は小説で、
バクマン。の原作は漫画で、どちらも原作のある映画です。
よく原作がある物語が映画になると、
原作と比較して、ああでもない、こうだったと
という話になることもあると思うのですが、
この二つの作品を観て改めて感じたのは、
映画は映画なんだということでした。


どちらもすごくおもしろい作品です。
映画を作る人ってすごいな。と映画を観ながら感じました。
どうやってこんな撮影の仕方をするのだろう?
よくこんな映像の見せ方を思いつくな〜。
と思うことの連続でした。


「天空の蜂」は映画を観終わった後に原作を購入して
早速、読んでみたのですが、映画の内容と原作の内容では
結構違う部分がありました。
あ、ここも違うんだ。おお、ここも違うのかと読みながら
気がづくのですが、そこで思ったのが、あの映画の脚本の方は
すごいなということでした。
二時間という映画の枠の中で伝えたいことがはっきりしていて、
その伝えたいことが伝わるように原作の内容を
うまく変えているなと思った時に、
そうか映画は映画なんだと気づかされました。


原作の延長線上に映画があるんじゃなくて、
全く別の物として楽しむという感覚が大切なのかもしれません。
「バクマン。」の大根監督がバクマン。の原作者の方に会いに
行った時に「映画には向いてないのは分かってるので、
監督の好きなようにやってください。何なら物語を変えてほしい」
ということを言われたそうです。


一つの価値観の中で良い悪いを決めるんじゃなくて、
いろいろな見方、表現の仕方があるということを
発見するように楽しんでいきたいなと気づかせてくれた
映画だったのかもしれません。


どちらも最高におもしろい作品です。
どちらも映画ってすごいな、映画を作る人ってすごいなと
思わせてくれる作品です。
いや〜観ることができて本当によかったなと思います。


あ、あとあとどちらもなんですが、
曲がすごくいいんです。
秦基博さんの「Q&A」とサカナクションさんの「新宝島」
がエンドロールで流れてきた時には驚きました。
自然と曲を聴きながら、映画を振り返っていたり、
なんなら、もう一つの作品を観ているそんな感覚にもなりました。
何かを作る人は本当にすごいです。


2015年10月4日日曜日

再配達

先日の朝日新聞デジタルに「宅配便、留守で2割が再配達」という記事がありました。
宅配便の取扱量が増えるなか、
受取人の留守で2割が再配達になっているという内容でした。


再配達は各地で目立っていて、国土交通省は昨年12月に
宅配業者大手3社を対象に再配達の発生率を調査し、
約413万個を調べた結果、2割が再配達されていたとのことでした。
これは都市部、都市郊外、地方のいずれもほぼ同じ傾向だったようです。
トラックで運ばれる宅配便の取り扱い個数は増加傾向で、2013年度には
35億個を超えたそうです。
再配達の影響はトラックの排ガスにも影響し、
同省の試算では年42万トンの二酸化炭素が発生するとされています。
これは山手線の内側面積の2.5倍と同じ広さの杉林が吸収する量に
匹敵します。


また不在者への配達には、のべ年約1億8千万時間かかり、
労働力に換算すると約9万人分になります。
業界では人手不足を感じているそうです。
「再配達の過剰発生は社会的損失」とみる国土交通省は検討会を発足させ、
業界でも対策が進められているそうです。
あらかじめ、配達予定日や時間をメールで知らせたり、
外出先でも変更できる会員向けアプリの開発や、
コンビニで荷物を預かるサービスも行う行っていくようです。


確かに何度も何度も同じ所で届けるというのは
時間やコストの損出につながりますね。
私も荷物を受け取れずに再配達という経験は何度もあります。
その度に申し訳ない気持ちになります。
ネットで買い物をする際にあらかじめ配達日時を決めれるものはいいのですが、
そうでない場合は高い頻度で再配達になってしまいます。
ですので、2割と聞いてちょっと意外でした。
もう少し多いものだと思っていました。
なかなか平日の日中に配達があっても家にいて受け取るということはできませんね。
かといって平日の夕方から夜にかけての配達が集中してしまうと、
配達する方の負担も大きくなるように感じます。
プラスそんな時に留守だったり...ということを想像すると申し訳なくなります。
ネットの普及による配達物の増加や、
仕事中心の生活スタイルなど様々な原因がありそうですね。


便利になっている部分はありますが、
それを担ってくださっている人がいるということも
また少しは想像していきたいなと思いました。






2015年9月27日日曜日

オニヤンマ

日本最大のトンボといえば、あのオニヤンマですね。
見かけた時には思わず「うわぁでかっ!」となってしまうあのトンボです。
頭部からお腹の先端までは9〜11㎝ほどに達するので、
よく見るトンボに比べると明らかにその大きさが分かります。


僕は子ども頃、虫を捕るのが大好きだったので、このオニヤンマも追いかけて
いました。ですが、飛行スピードが速くなかなか捕獲できなかったのを思い出します。
オニヤンマの飛行速度を調べてみると秒速2メートルとありました。
これは速いのかな?と思ったら、ギンヤンマは秒速7メートル、
ルリボシヤンマという種類になると秒速10メートルになるそうです。
これはもう、トンボは飛行速度が速いということでいいのかもしれませんね。


飛行速度が速いので、なかなか捕獲できないのですが、子どものころ、
そんなオニヤンマを捕まえようとして気がついたことがあります。
それは、少し待っていたらまたオニヤンマが同じ場所に戻ってくるということです。
なので、とり逃がしても、しばらく待っているとリベンジの機会が与えられるので、
何度か繰り返しているうちに捕獲できます。
オニヤンマには一定区域をパトロールし、侵入してくる同種の個体に
接触を図るという性質があるようなので、この行動にも当てはまりますね。


また、うまく捕まえた後、手でオニヤンマを掴むのにも注意が必要です。
僕も何度か噛まれたことがあるのですが、とにかく痛いです。
大きな顎が特徴で、肉食でもあるので噛まれると当然痛いですね。
何でもセミやスズメバチ、カマキリを捕食した事例もあるそうなので、
その獰猛ぶり、噛まれた時の痛さには頷けますね。
いや〜本当に痛いんですよね。噛まれると。でもかっこいいから
また捕まえたくなるんですよね。


そんなオニヤンマ、保育園の中にもよく入ってきます。
この間は部屋の中に入ってきたな〜と思ったら、しばらく室内を飛んだ後に、
回っている扇風機にむかって突撃して、撃沈してしまっていました。
「え?」と驚いてしまいました。
扇風機の風に吸い込まれたのかな?と思ったのですが、調べてみると
どうもそうではないようです。
オニヤンマのオスは羽ばたくものはメスだと思ってしまうそうです。
そういう性質があるため、回転しているものをメスと勘違いしたりするそうです。
なので、扇風機の回転に反応して接近してしまい、撃沈してしまったのですね。
なんともオスというのはどの世界でも憐れなものだなと思ってしまいます。


この性質を利用して、ひもの先に小石などをくくりつけたものをぐるぐる回して
オニヤンマを採取するという技法があるそうです。
おもしろそうですね。それにしてもこれは誰が思いついたんですかね。
夏が終わり、秋が深まると昆虫たちも姿を消します。
なんだか少しさみしいですね。


2015年9月20日日曜日

どっち

長い 短い
大きい 小さい
高い 低い
明るい 暗い
大雑把 神経質
真面目 適当
感情 理論


対比?とか比較?されるものをちょっと挙げていました。
いろいろ挙げるとたくさんありそうですし、
これとこれは対比にはならないんじゃない?というものもあるかもしれませんが、
こうやって対比になるような言葉を並べてみるとなんだか癖として、
「じゃあ自分はどっちなんだろうか?」とついつい考えてしまいそうになります。
真面目なのか、適当なのか。
明るいのか、暗いのか。
どっちなんだろうと。


どっちだろう?と思い、考えると
ん〜こっちかな?というようにとりあえず自分はどちらかなと
決めることがあります。
だいたいそれに間違いはないのかもしれませんが、
どっちってこともないんじゃないのかなとふと思いました。


感情と理論なんかもそうですよね。
何かを考えたり、決めたりする時に感情ばかりで動いてしまうと
一体何を大切にしているのか分からなくなってしまいます。
しかし、だからといって理論ばかりで動いてしまうと人と人との関わりにおいては
なんだかちょっと冷たいなということにもなったり、
なかなか動きを起こすことが難しくなるように思います。
そんな時に、思ったのが「どっちも大事じゃんか」ということでした。
なんていうのでしょうか、「バランス」なのかもしれません。
なんでもバランスが大切ですね。


それは柔軟ということにもつながるのかもしれません。
どちらかに偏っていると、それしか受け入れられなくなってしまいそうですね。
その時、その時に応じて、受け止め方、対応の仕方を変えることのできる人は
様々な面を自分自身が持っているという柔軟な人なのかもしれません。


ちょっと何を言っているのか分からなくなってきましたが、
どちらかのタイプだと決めつけて行動を狭めるのではなく、
様々な考え方、行動の仕方をもった柔軟性の高い人間に
なれたらいいなのかなと思いました。









2015年9月13日日曜日

変わっていく

27歳です。まだまだ若いです。むしろ盛りだと思います。
そんななかでも「あ、もう27なんだ」と気がついて、
なんだか妙な焦りを覚えることもあります。
それは、歳を重ねる実感を感じたり、意識することが少なくなったからですかね。
学校なんかだと学年が上がることで、自然と年齢を意識したりしましたが、
学校を卒業すると分かりやすく意識することが減るからなのかもしれませんね。


そんな27歳なわたくしですが、最近、体の変化を感じるようになりました。
27歳で「老いてきたな」なんて言うつもりはありません。
まさに盛りですから!
ですが、体の変化というものは明らかに感じるようになりました。
そのひとつが背中の凝りです。
本を読んだり、パソコンをしたりするので仕方のないことなのですが、
以前は背中の凝りを感じることはほとんどありませんでした。
学生時代は剣道をしていたので、否応なしに竹刀を振ります。
肩甲骨ぐりぐりで、血行もバツグン!だったのではないでしょうか。
そんな時に、もちろん凝りなど感じることもなく、それが当たり前というか、
意識すらしていませんでした。
それが、最近は朝起きて、すでに背中が凝っていたり、
張っていたりします。
肩凝りも少し感じるようになりました。
僕はこういうことには本当に無縁でした。
大きなケガもなく、体が特別痛むということはありませんでした。


あと、睡眠時間による翌朝の動きも変わってきました。
あまり寝れていない次の日の朝は明らかに体の動きにくさを感じるようになりました。
「体が重たい」そんな感覚がズシっとつきまとう感じがします。
少し前は「早く寝るなんてもったいない!夜はこれからだぜ!」
という感じで、夜更かしが当たり前になっていました。
それでも翌朝は動けていたので、早く寝ることにあまり意味を
感じていなかったのですが、今では翌朝のことも考えて、ほとんど
夜更かしをしないようになりました。
これも変化であります。


と、ここまで書いて思ったのであります。
これ、年齢とかじゃなく.....太ったからじゃないの!?と。
学生時代からドカンと太ったわたくしです。
思えば、体への負荷も相当かかっているのではないでしょうか。
そんな歪みが体の様々な部分に出ているのかもしれません...。
こりゃ!痩せないといかんではないか!
と綴りながら改めて感じたのでした。


思うだけではダメなんですけね〜。








2015年9月6日日曜日

玉虫

先日、園庭で玉虫を見つけました。


玉虫の色、きれいですよね。
僕はこの玉虫が好きなのですが、
不思議と子どもの頃はほとんど見たことがありませんでした。
当時も、「玉虫を見てみたいな」と思っていたのですが、
なかなかその機会に恵まれずにいました。
ですが、大人になった今では結構な頻度で玉虫を見かけるようになりました。
そのほとんどを職場の近くで見ているのですが、子どもの頃住んでいた場所と職場は離れています。虫の分布の違いがあるのかもしれませんね。


そんな玉虫ですが、写真のように美しい外見をしていることから古来より、
大切に扱われてきました。本当にきれいですよね。
全体に緑色の光沢があり、背中には赤と緑の縦じまが入っています。
虫の天敵である鳥は「色が変わるもの」を怖がる性質があるため、
この玉虫にはあまり鳥は近づかないそうです。
鳥は色が変わるものが怖いんですね。
だから、畑や田んぼにはCDだったり、
キラキラとしてテープがつるしてあったりすんですね。


古来より大切に扱われてきたといいましたが、
この玉虫は卵をりんごや槇などの樹皮の割れ目や傷跡に生み付けます。
そうすると、幼虫は幹の奥深くに穴を掘って幹を食べてしまうので、
木が弱ってしまい風雨で木が折れたり、倒木につながってしまうということで、
果樹園の方や庭師の方などには害虫ということで、結構嫌われているそうです。
玉虫も生きていくため、
子孫を残すためにやっていることなので罪はないのですが、
人の都合で害虫になってしまうというのもまた
現代では仕方のないことなのかもしれませんね。


現代では害虫としてみられてしまうこともありますが、
この玉虫の金属光沢は死んだ後も色あせることがないため、
装身具(指輪やネックレス、ペンダントなど)に加工されたりしてきました。
その中でも「玉虫厨子(たまむしずし)」というのが有名ですね。
玉虫厨子は法隆寺が所蔵する仏教工芸品で、
装飾に玉虫の羽が使われてある国宝の工芸品です。
「厨子」を調べると「仏像などの礼拝対象を納めて屋内に安置する、
屋根付きの工作物」とあります。
しかし、現在の玉虫厨子には玉虫の羽の部分はほとんどなくなっているそうです。


そんな玉虫厨子を復活させようと「平成の玉虫厨子」と銘打って約4000人もの職人さんが集まり2004〜2007年という約4年の歳月をかけ美し玉虫厨子を復活させたそうです。しかもこれ、岐阜県の造園業をしておられる方が一億円をこえる私費を投じて完成させたということでさらに驚きました。
さらに驚いたのが、この平成の玉虫厨子に使われた玉虫の数です。
なんと2万匹以上の玉虫の羽が使われたそうです。
ネットなどでこの厨子を見ることができますが、とても美しいです。
一度は見てみたいなと思いますが、2万匹の玉虫はどうやって手に入れたのですかね。
地道に捕まえるのは途方もない感じがします。
玉虫を養殖していたのですかね。


玉虫、実際に見てみると本当にきれいで、
ずっと見ていても飽きないので、ぜひ見かけた際は近づいて見てみてください。
その美しさにうっとりしてしまいますよ。
あ、ですが、すぐに飛んでいったり、
ぽろぽろとかわいいウンチをするので少しだけお気をつけ下さい。






2015年8月30日日曜日

石灯篭

島根県の伝統工芸の一つに「出雲石灯篭」があります。
今年度の園のテーマが「伝統」ということで、
その石灯籠に興味が湧いてきたのですが、
そういえば、松江に向かう途中なんかに出雲を過ぎたあたりから
やたらと石灯篭が立っていたのを
「伝統」を意識するようになってから改めて気が付いたりしました。


まず石灯篭なのですが、もともとは日本の伝統的な照明器具になるそうです。
「灯篭」も「灯り」「籠(かご)」という文字ですが、
もともとは灯りが消えないように木製の木枠と紙などで囲いをしたものだそうです。
灯篭は仏教の伝来と同時期に日本にやってきます。
寺院建設が盛んな奈良時代に多く作られるようになり、
平安時代になると神社の献灯として用いられるようになります。
その後、室内で用いるものは行灯(あんどん)、
携帯できるものは提灯へと分化していきます。
行灯や提灯が灯篭から分かれていったのには驚きました。


また、安土・桃山時代になると茶ノ湯の文化が深まっていきます。
その深まりとともに石灯篭は庭園を演出する重要な物として用いられ始めました。
確かに日本庭園に石灯篭があるとぐっと庭が引き締まる感じがしますよね。
少し前に園でも自分たちで日本庭園を作ったのですが、
そこに小さな石灯篭を置くだけで庭全体が引き締まったような印象を持ちました。
そんな庭園に石灯篭を初めて用いたのはあの有名な千利休といわれています。
さずがですね。
庭を見ながらお茶を楽しむために
きっといろいろなアンテナを張り巡らせていたのでしょうね。


石灯篭には有名な産地というものがあり、
灯篭の産地はどこも昔から有名な採石場であるそうです。
そこで、出雲の石灯篭なのですが、
松江市宍道町来待地区では来待石というものが産出されます。
この来待石は1400万年前に形成された凝灰質砂岩で、
粒子がきめ細かく、色彩が苔青く自然と調和する色合いで、
耐久性にも優れているそうです。
そのような特徴がある石がとれるため、石灯篭に使われるようになり、
それが出雲石灯篭になっていったそうです。
江戸時代にはこの来待石は松江藩の御止石になり、
藩外に持ち出しが禁止されるほど
重要視されるようになります。
松江の城下町では至るところにこの来待石が使用されているそうです。


そして、出雲石灯篭は昭和51年に石工品として初めて伝統的工芸品として26種類の形が指定を受けることになります。
形も様々なあり、
それぞれの部位の呼び名も様々でなかなかおもしろいです。
同じ県でありながら、松江にも住んでいたのに、
今になってこの石灯篭のことを知るというのもまたおもしろいなと思います。


石灯篭もそうですが、
時代が変わるにつれてその用いられ方もだんだんと変化していったのですね。
その時代にあった変化ができたからこそ
今日まで伝統工芸として残ってこれたのかもしれません。
これは様々なことにもつながっていくのかもしれませんね。
その時代、時代に合った形に変化するということは大切ですね。





2015年8月23日日曜日

スイカの種

知り合いの方のお義父さんの話なんですが、
その方のお義父さんというのが80歳をこえる年齢の方で、
少し前にある病気で入院されていたそうなんです。
幸い、病状は軽かったのですが病名としては死にもつながるもので、
一つ間違えばということにもなりかねないものでした。


そんなお義父さんの入院中に、
食事として病院からスイカが出たそうなんです。
そのスイカがあまりにも美味しかったそうで、感動したお義父さんは
「来年、畑にまこう」と思い、
そのスイカの種を口から取り出し、丁寧にティッシュに包まれたそうです。
そして、無事に退院され、そのティッシュに包まれスイカの種も
ちゃんと持って帰られたそうです。
知り合いの方いわく、家に帰ると広げたティッシュの上に
その種が丁寧に並べられ、乾かされていたそうです。


この話を聞いたときに、ちょっと感動してしまいました。
「すごい話だな〜」と自然と声に出てくる感じでしょうか。


未熟な私は
80歳という年齢を考えると、病気をされ、入院しているということで、
気が滅入ってしまうのじゃないかなとやはり想像してしまいます。
この先、どうなるんだろう?
そろそろ...とこの病気を気にそんなことを悶々とベッドの上で
考えていてもおかしくないんじゃないかなと想像するのですが、
そのお義父さんは、スイカの味に感動して、
「よし、来年自分もこれを作ろう」と思われたのだと思うと、
もう、なんだか、その生きる意欲といいますか、
下を向かない自然な姿勢に感動してしまいました。


何かに感動できるというのは
気持ちが元気な証拠なのかもしれません。
何かに感動できる余裕があるということでもあるのかもしれません。
きっと、その方はスイカを食べて「美味しい」と
思ったとたんに、「よし、来年作ろう」と思ったんじゃないかなと
思うんです。普段から自然にそんなふうに考えられる方なんじゃないかなと。


病気になった時だけじゃなく、
普段の生活の時から、何でも「スイカの種」のような
考え方をしておくといいのかもしれませんね。
「スイカの種」は僕の中で、ちょっとした名言とか、格言みたいな
ものになっています。
病は気からといいますが、このお義父さんの「スイカの種」の
話はまさにそのことを教えてくださるようです。


「ダメだよそんなんじゃ。もっとスイカの種的な生き方をしないと」
と自分に言い聞かせてみようかと思います。






2015年8月16日日曜日

月照寺


松江市にある月照寺を訪れました。
月照寺は松江藩主を務めた松平家の廟(死者を祀った場所)が納められているお寺です。
とても広い敷地で、境内には初代から9代までの藩主の廟が並んでいます。
もともとこの場所には洞雲寺(とううんじ)というお寺があったそうなのですが、長い間荒廃していました。その洞雲寺を初代藩主の松平直政が生母である月照院の霊碑安置所としてこの寺を再興し、月照寺としたそうです。
ちなみに松平直政の祖父は徳川家康にあたり、大阪の陣で活躍した直政はその戦功を家康に褒められ、家康の打飼袋(うちがいぶくろ)を与えられます。この打飼袋(所持品を入れて腰に巻きつけるもの)は月照寺にあるそうですよ。



月照寺の門をくぐって正面にみえるのが7代藩主松平治郷の廟になります。
治郷は不昧公(ふまいこう)とも呼ばれ、茶人としての才能を開花させ、
不昧流という独自の茶道の形をつくります。


この不昧公は財政が困窮する藩を農業製作や治水工事、倹約令などで立て直すのですが、さすが茶人の不昧公、とんでもない額の茶器をいくつも購入したために、
藩の財政は再度悪化していったそうです。
実際に改革を行ったのは不昧公ではなく、不昧公自身は政治に口出ししなかったために、それが原因ではとも言われていますが、
なかなかお殿様にはこのあたりの感覚というのは分からなかったのかもしれませんね。
それを是が非でも止めるという人もいなかったのかもしれませんね。


次に6代藩主むねのぶ公の廟所にいくと、大きな亀の石像が目に入ります。
この大亀の石像を見るために月照寺を訪れたというのも一つの理由です。
この大亀はむねのぶ公が50歳の時に、息子である不昧公が父の長寿を願って建てたものだそうです。そして、この石像には様々な伝説があり、その一つがあの小泉八雲の「知られざる日本の面影」という随筆に登場します。



伝説では、この大亀、夜になると動き出し、池の水を飲んだり、城下町にくりだし人々を食べていたとされています。困った住職は夜中に大亀に対して説法をします。すると大亀は自分でもこの奇行を止めることができない、あなたに任せますといって涙を流したそうです。そこで、亡くなった藩主の功績を彫り込んだ石碑を大亀の背中に背負わせて、この地に封じ込めたのだそうです。
この大亀の石像、近くでみると迫力があり、
爪もするどく凶暴さを感じるような姿をしています。夜中にこんな大亀と出会ったらどうすることもできないかもしれませんね。


話は変わって、松江の地ビールも手に入れました。
松江地ビール「ビアへるん」というものですが、これは英語教師として松江に赴任してきた小泉八雲のことを地元の人々が「へるん先生」と呼び親しんでいたことからこの名前が付けられそうです。


また、このビールを製造する島根ビール株式会社のHPを見てみると、『日本という国を広く世界に広めたへるん先生にあやかり、日本に広まり、そして世界にも広まって多くの方々に飲んで欲しいという想いを込めて「ビアへるん」と命名致しました』とありました。また松江藩は幕末にすでにビール会社を経営していたそうです。

知らないことをたくさん知れた時間になりました。



2015年8月9日日曜日

徹夜と同じ?

スマートフォンやパソコンが普及したことで、
様々なニュース記事を見かける機会が増えたように思います。
本当にたくさんの記事があるので、
「え?それ本当なの?」というものもありますが、
全ての情報を鵜呑みにせずに、自分にとって必要な情報は
なんなのかをしっかり見極める力も大切になってくるのかもしれませんね。


「6時間以下なら徹夜と同じ?睡眠時間と作業効率の関係」
という記事を目にしました。
ペンシルベニア大学とワシントン州立大学で行われた実験では、
1日平均7〜8時間睡眠をとる男女を48名集め、
4つのグループに分けたそうです。
1組目には3日間眠らずに過ごしてもらい、それ以外のグループには
4、6、8時間とそれぞれ決まった睡眠時間をとって生活してもらったそうです。


その結果、14日間の実験期間中、認知機能、注意・運動神経ともに全く低下しなかったのが、8時間睡眠をとったグループで、一方で4時間と6時間グループは
日を追うごとに着実に身体機能が低下していったそうです。
その理由の1つが、寝不足の累積です。
寝不足が累積され、1週間経つ頃には、6時間睡眠のグループは1日中、
睡魔に襲われながら過ごすようになったそうです。
そして、2週間後には6時間睡眠のグループは2日間徹夜で過ごした
グループと同じレベルまでパフォーマンスが低下しました。


また、寝不足が進んでいくと認知、注意、運動神経などの能力が、
日に日に低下していったのですが、そのことを自分自身では気がつくことが
できなくなっていたそうです。


6時間睡眠でもこのような結果になるというのはちょっと驚きでした。
6時間睡眠を2週間続けけると2日間徹夜をしたのと同じような
状態になるというのも驚きました。2日間寝てない状態って相当
しんどいですよね。
この結果を知ると、睡眠時間の少ない状態を続け週末に向けて
疲れが増していくという感覚の正体がなんとなく分かるような気がします。
睡眠が正常に行われないことで、心拍数や血圧にも影響があり、
免疫力も弱くなり、感染症にもかかりやすくなると言われます。
ついつい夜更かしをしてしまうこともありますが、
しっかり眠ることをもっと大切にしたいですね。


ですが、睡眠時間もそれぞれの人によって違うと思います。
6時間で十分足りている人もいるかもしれません。
あまり時間ばかり気にすると「あ、こんな時間だ。早く寝ないと」
と、かえってストレスを溜めてしまうことにもなってしまうかもしれません。
自分の体に合った睡眠時間を知ることもまた大切になってくるのかもしれませんね。

2015年8月2日日曜日

竜馬がゆく

「竜馬がゆく」をやっと全巻読み終わりました。
読み始めた頃は長い物語を読むことになるぞ、
というどこか気合いのような思いがあったのですが、
読み終わりが近づいてくると妙な寂しさを抱くようになっていました。
そして、読み終わるとやっぱりどこか寂しくなっている自分がいました。
なんだか竜馬とお別れをしたそんな気分にでもなっているのかもしれません。
もちろん、会ったこともないのですが、不思議な感覚ですね。


「竜馬がゆく」は司馬遼太郎が書いた全8巻からなる歴史小説です。
小説ですので、必ずしも事実ばかりではないのですが、
読むことで坂本龍馬の人生、成したことなどを知ることができました。
竜馬がゆくを読むまでは坂本龍馬に関する詳しいことはほとんど知らなかった
僕にはこの本で知ったこと、感じたことがたくさんありました。
龍馬だけではなく、幕末のこともほとんど知らなかったのですが、
読む前より格段に幕末、明治の時代について知りたくなっている自分がいます。
それもこの本を読むことで得られた嬉しいことでもあります。


そんな「竜馬がゆく」なのですが、
読んでいて竜馬の為人、性格を感じる文章がいくつかありました。
そんな竜馬の人柄から学ぶことがたくさんあったので、
いくつか紹介してみたいと思います。


「竜馬も、ニコニコした。その笑顔がひどく愛嬌があり、
(おお、みごとな男じゃ)と西郷はおもった。
漢は愛嬌こそ大事だと西郷はおもっている。
鈴虫が草の露を慕うように万人がその愛嬌に慕い寄り、
いつのまにか人を動かし世を動かし、大事をなすにいたると、
西郷はおもっている。
もっとも西郷の哲学とは愛嬌とは女の愛嬌ではない。
無欲と至誠からにじみ出る分泌液だとおもっている」


「竜馬は、議論しない。
議論などはよほど重大なときでもないかぎり、
してはならぬ、と自分にいいきかせている。
もし議論に勝ったとせよ。
相手の名誉を奪うだけのことである。
通常、人間は議論に負けても自分の所論や生き方は変えぬ生きものだし、
負けたあと、持つのは、負けた恨みだけである」


「人間に本来、上下はない。
浮世の位階というのは泰平の世の飾りものである。
天下が乱れてくれば、ぺこぺこ剥げるものだ。
事をなさんとすれば、智と勇と仁を蓄えねばならぬ」


『なるほど日本の危険をすくうために徳川幕府は倒したい。
しかしそのあとに樹立される革命政権の親玉になるなどは、竜馬はまっぴらである。
「おれにはもっと大きな志がある」「どんな?」
「日本の乱が片づけばこの国を去り、
太平洋と大西洋に船団をうかべて世界を相手に大仕事がしてみたい」』


少しではありますが、
これらの竜馬の言葉や、竜馬に対する見方を知ると
坂本竜馬ががどんな人物であったかのかを
この小説での竜馬を通して想像することができ、
より坂本龍馬という人を知りたくなります。
そして、この小説の中での竜馬の姿からは人としての大切さも教えられるようでもありました。


その中でも西郷が竜馬をみて思った
「無欲と至誠」には考えさせられます。
欲をそぎ落とすことで、満たされない思いは消え楽に生きられるようになり、
至誠(誠実)を持つことで、
自分が成し遂げたい思いに向かって進んでいけるのかもしれません。
無欲と至誠、生活でも仕事でも
どんな場面でも大切にしたいことだなと思いました。











2015年7月26日日曜日

足立美術館

行ってみたいと思っていた「足立美術館」に足を運べることができました。
足立美術館は米国の日本庭園専門雑誌が行っている日本庭園ランキングで12年連続で庭園日本一に選出されているということだったので、一度は訪れたいと思っていました。
足立美術館は地元安来市出身の足立全康氏が1971年に開館したものになります。
全康氏は実家の農業を手伝いながら村の商売の手伝いをしていくうちに、商売に深い関心をよせるようになり、14歳の頃、炭を運搬する傍らそれらを売ることで初めて商売を手がけることになったそうです。
そこから商才を発揮し、一代で財産を築いたそうです。
商売に向いている人というのはやっぱりいるのですかね。商売が好き、興味があるということなのかもしれませんが、僕にはあまり縁のない世界かなと今のところは思ったりします。


広大な日本庭園は「枯山水庭」「苔庭」「寿立庵の庭」「白砂青松庭」「池庭」「亀鶴の滝」の6つに分かれていて、面積は5万坪にもなるそうです。庭園に置かれている庭石や松などは全康氏が自ら全国を回り探してきたそうです。
開館の時の年齢が71歳だったことを思うとかなりアクティブな人だったのかもしれませんね。僕もいつまでもそのような気持ちは持っていたいなと思います。
庭園は専属の庭師やスッタフの方が毎日、手入れや掃除をしているそうです。
「庭園もまた一幅の絵画である」という言葉を全康氏が残していることからも、庭園を美しく維持することを大切にしていることを感じます。



「枯山水庭」
この枯山水庭は後ろの山も庭に取り込んだ借景を用いた庭園になっています。この写真の右側に「亀鶴の滝」があるのですが、なんとその滝は人工の滝なのだそうです。全康氏が「この庭には滝がいる」というようなことを思いついたらしく、ついに滝まで作ってしまったそうです。いや〜おもしろい方ですね。好きなものを極める姿勢は見習いたいですね。

「苔庭」
この苔庭ですが、樹木は全て斜めに植えられています。これは、樹木はもともと山の斜面に育ったものであるので、まっすぐに植えると樹木にとって負担であるという考えに基づいているそうです。



「池庭」
この池庭の池には鯉がたくさん泳いでいます。僕はこの庭が一番好きかもしれません。鯉の泳ぎを見ながらずっと見ていられる庭です。この庭は和風の庭と洋風的な建物との調和を考えた和洋折衷な庭になっています。



 「白砂青松庭」
 ここは横山大観の「白沙青松」が持つ清澄なイメージを庭園に表現したものになるそうです。

少し離れた所にある床の間に壁が切り取られた額のようなものがあり、そこからこの「白砂青松庭」を見るとまさに額におさめられた絵画のように見えます。「庭園もまた一幅の絵画である」という全康氏の言葉が聞こえてきそうですね。



そんな庭園を見ながら一息つける喫茶店があったり、おいしい食事が食べれるレストランがあったりします。とても贅沢な空間ですよ。


庭園だけはなく、美術館の中には日本画がたくさん収められていました。横山大観の絵画の横に全康氏のコメントがあるのですが、横山大観が大好きすぎてその作品をどうしても手に入れたかったという気持ちがにじみ出ている、なかなかおもしろいコメントの数々でそれを読むのもひとつの楽しみでもあるかもしれません。
あ、この美術館で同級生が働いていたのには驚きました。
とってもよくしていただき、感謝です。
また、秋に行ってみたいな〜。




2015年7月19日日曜日

外様

江戸時代などの大名の種類に
親藩(しんぱん)、譜代大名(ふだいだいみょう)、外様大名(とざまだいみょう)
というものがあります。
かなりざっくりな説明ですが、
親藩は将軍の親戚にあたる大名、
譜代はあの関ヶ原の戦いの前から徳川家康と仲良くしていた大名、
外様は関ヶ原の戦い以降、徳川家康に従った大名という感じになります。


どの大名も天下統一を成し遂げた徳川の部下のような存在になる訳ですが、
幕府があった江戸の周辺には親藩や譜代大名が置かれます。
親藩や譜代は幕府にとってはそれなりに信頼のおける
存在だったということになりますね。
親戚や、ずっと仲良くしていた関係だったので、
それもそうですよね。
しかし、外様大名は九州や東北、四国といった江戸から離れた
土地に配置されました。
仕方ないですよね。外様大名はもともとは敵という感じだったので、
仕方ないですよね。
しかも、外様大名と外様大名の間には譜代大名などを配置することで、
外様大名同士の連携をできないようにもしていたそうです。
仕方ないですよね。敵だったんですから。
天下統一したとはいえ、幕府も外様大名のことは警戒していたと思うので、
仕方ないですよね。


でも、なんだか、そんな外様大名のことを思うと、こう、なんていうのか
ちょっと同情というか、
おもしろくなかっただろうなと思ってしまうんです。
ずっと幕府に対する恨みというか、
あまりよくない思いをずっと抱いていたんじゃないかなと思うんです。
だって、きっと
ほかにもいろいろな不利なことを要求されたり、
させられたりしたんじゃないかなと思ったりするんです。
いや、仕方ないことなんですよ。
それはもう、仕方ないことなんです。
でも、なんだかそんな外様大名の気持ちを考えちゃったんです。
きっとそんな気持ちが後々に爆発していくのかもしれませんが、
あまり詳しくないので、なんともいえませんね。


「外様」という字もまたなんともですよね。

2015年7月12日日曜日

ライブ感

先週の7月4日にサザンオールスターズのライブのため福岡に足を運んでおりました。
生憎の雨模様だったのですが、そのためか気温も低く、動き回るには
涼しいくらいの天候でもありました。
歩き回っているとさっそく福岡市のマンホールに出会いました。


どういう意味のデザインなのか分からなかったので、調べてみると福岡市は平成2年に
下水道普及人口100万人を突破したことを記念して「下水道普及のイメージアップと
市にふさわしい個性的なデザイン」というテーマで公募し、鳥、ヨット、街並みなどの抽象的なデザインの組み合わせが「人の都・アクティブな福岡市」を連想させるということでこのデザインが採用されたようです。
写真のデザインは耐スリップ性能を向上させるために少しデザインを変更したものになるそうです。




そして、ライブなのですが、もう言うまでもなく(言いますが)最高でした。
やっぱりライブは何度行ってもいいですね。ライブ感というのでしょうか、
他の観客の方々と一緒になって歌う、体を動かす、手を叩くこと、その場を共有することで、感情が一体化するというのでしょうか自分の感情はみんなの感情でもあり、みんなの感情が自分の感情でもあるというような不思議な体験をすることができました。

原坊のダンスの場面、スーパーマンの場面、ピースとハイライトの場面という3箇所でなぜだか涙が出てきました。
桑田さんも59歳です。来年の2月で還暦を迎える体でありながら3時間半歌い続ける体力には圧倒させられました。
もっと楽しんでみなよ、もっと挑戦してみな、悩むことなんかない。なんていういろいろな感情を受け取りました。


そして、帰りにこれをたらふく食べました。







2015年7月5日日曜日

じっくり味わう絵巻②

妖怪を描いた絵巻「百鬼夜行絵巻(ひゃっきやぎょうえまき)」も
見ることができました。
この絵巻には獣が化けた物や、付喪神(つくもがみ)という使い古された道具の妖怪たちが羅列して描かれている様子が行列のようだからということで、百鬼夜行絵巻と呼ばれています。現物の写真がなくて分かりにくいですが、ここに描かれた妖怪たちはとても可愛らしく?怖いや不気味というより、どこかキャラクター性を持った描かれ方をしていて、
ちょっと昔でいう所のポケモン図鑑を見るようなおもしろさもありました。



具体的に見ていくと、笠の妖怪、糸巻きの妖怪、小槌の妖怪、破れうちわの妖怪、巾着の妖怪、櫂(水をかいて舟を進める道具)の妖怪、茶釜の妖怪など様々でした。
今の子どもたちにとっては、馴染みのない道具も多いですが、見たことやまだまだ使っている道具もありますね。また、この絵巻から昔はこんな道具を使っていたんだなと知ることもできるかもしれませんね。


以前、九州国立博物館に行った時に「針聞書(はりききがき)」という体にいるとされる虫の図とその治療法などが書かれた展示物も見ました。
馬カンという心臓にいるとされる虫や肺虫という肺にいる虫などがユーモラスな表現で描かれていて、とてもおもしろかったのを覚えています。
          (馬カン)        (肺虫)

かつての人は目に見えない存在をこのようにユーモラスたっぷりに表現していたのですね。それは遊び心もあるのでしょうが、それと同じくらい真面目に想像していたのではないかと思います。そして、それは世の中は様々な存在が混在しながら成り立っているという感覚も感じていたからではないでしょうか。この自分だけが自分の中心ではない、世の中の中心ではないという感覚はとても大切なことなのかもしれませんね。





(八雲の図の実物大)





常設展の中にはこのようなものもありました。相撲の始まりは出雲の野見宿禰(のみのすくね)と大和の当麻蹴速(たいまのけはや)が力くらべをしたことによるそうです。
当時松江藩は強豪力士を独占したようで、あの雷電為右衛門も松江藩お抱えの力士だったことは有名ですね。この手形もある力士の十歳の大きさのものだそうです。手を合わせると「どすこい!」なんて声を発するのでちょっと恥ずかしいのですが、そのあまりの大きさに驚いてしまいました。
当時の強豪力士を少しでも感じることのできる展示で、参考にもなりました。


お昼はこのようなお庭が見えるカフェで食事をすることもできます。




またそこでは、「四隅突出型墳丘墓」カレーというなかなか遊び心満載のカレーも頂くことができます。四隅突出型墳丘墓とは弥生時代中期以降に山陰地方や各地で作られたもので、その名の通り四隅が突出した形のお墓になります。これをカレーにするセンス、またスプーンが「発掘でもしてください」というようなスッコプ型というのもなかなか粋ですね。
ちなみに、あの島根の吉田くんで有名な蛙男商会制作の「古墳GALのコフィー」というフラッシュアニメに四隅突出型墳丘墓のダニエルくんというキャラクターも登場します。







2015年6月28日日曜日

じっくり味わう絵巻①

古代出雲歴史博物館で「じっくり味わう絵巻」という特別展を開催しているので、行ってきました。
歴史博物館を訪れたのは2回目だったのですが、最初に訪れたことを
あまり覚えていなかったので、新鮮な気持ちで楽しむことができました。


企画展の展示室に入ってすぐに目に入るのが
「雲州公御上京御行列」です。
これは1847年の孝明天皇即位の儀式に将軍の名代として上京(京都御所へ)した
松江藩9代藩主松平斉貴(なりたけ)の行列を描いた絵巻で、大名行列を描いただけあって
絵巻の全長は46mもあります。

分かりにくい写真ですが、このような感じで46mに渡り行列が描かれています。
この人の荷物は重そうだな、この人はどんな役目なんだろうかという
人も描かれていて、なかなかじっくり楽しめました。
写真は藩主斉貴が乗った籠を囲むものなのですが、籠を囲む人の多さに
驚きますね。これだけ人がいれば安心ですね。


そもそもどうして題名が「じっくり味わう」なのかというと
パンフレットにはこう書かれてあります。
『美術館や博物館で展示されている絵巻を見ていて「イラッ」ときたことはありませんか?一部しか開いていない。場面の意味が分からない、「あーただのきれいな絵だな」で終わっては面白くないのも当たりまえ。今回の展示では、当館が所蔵する絵巻などをできるだけ、めいっぱい開いてご覧いただきます』
とありました。なかなか攻めの言い方でおもしろいですね。
その企画の趣旨を感じれたのが「大黒舞」という絵巻でした。

      
この大黒舞も長い絵巻で、話が最初から最後まで分かるように展示してあり、
内容がしっかり理解できまた。
貧しいながらも親孝行の大悦の介が清水寺での祈願の帰りに拾ったわらしべから物語が始まります。このわらしべが梨と交換され、梨が反物と交換され、最後には黄金10両を得ることになります。「わらしべ長者」の話ですね。
そして、ここからまた話が続き、翌年の正月、そんな大悦の介の親孝行ぶりに感心した
大黒、恵比寿が大悦の家を訪れ、酒宴を開き、舞や歌や相撲を楽しみ、福をさずけ、
長者にします。
しかし、富み栄える大悦の噂を耳にした大江山の盗賊達が攻めてきます。
大黒や恵比寿の力をかり、その盗賊達を討ち取るのですが、打ち取った盗賊達が
鬼になりなおも大悦を引きさらおうとします。
大黒のすすめで鬼達を供養することでこの危機から脱し、大悦の家はますます栄えていくという話なのですが、この鬼の絵が最初の写真のある大きな鬼の絵です。
とても迫力があり、なんともいえない不気味さを感じました。


この大黒舞の絵巻はそれぞれの場面の絵と、文字で物語が進んでいきます。
巻物なので長くなるのですが、私たちが見ている、読んでいる絵本に通じるもの
なんだなということを感じました。当時の人々はそんな絵巻ものを
私たちが絵本を読むように楽しんでいたのかもしれませんね。
絵巻だと長さにそんなに制限がないので、物語の世界をより盛大に表現することが
できるのかもしれません。高さには制限がありますが、描きたいものをおもいっきり
描けるということでもあったのかもしれません。
ついつ長くなってしまう。そんなこともあったのかもしれませんね。


また、同時にこんな長い絵巻をどこで描いたんだろうかということも気になりました。
やっぱり、ばっ!と広げて描きたいですよね。
そうなると、かなり広い場所も必要だったのかなと想像したりしました。


長くなったので、その2に続きます。




2015年6月21日日曜日

家紋

日本美術の事典を見ていたら、たくさんの「家紋」が
のったページが出てきました。とにかく様々なデザインがあり、
形もかわいらしく、見ていておもしろかったです。
「家紋」といってすぐに思い浮かぶのがやっぱりあの
徳川家の家紋ですよね。格さんが出す印籠にばっちり刻印された
あの葵の紋章はなんともかっこいいものがありますね。
私も水戸黄門や暴れん坊将軍という時代劇が好きだったので、
あの葵の紋章には妙な憧れがありました。


家紋は日本だけで241種あり、5116紋以上の家紋があるそうです。
そういえば祖父の家の玄関にも家紋があったように思います。
どんな模様だったかは忘れてしまいましたが、子どものころ「うちにも
家紋があるんだ〜」と嬉しくなったのを覚えています。


家紋の起源は古くもともとは平安時代まで遡るそうです。
奈良時代などでは調度品に装飾目的として様々な装飾がなされていたそうなのですが、
平安時代になるとそれらが貴族が各家固有の目印としてつかうようになったそうです。
そして合戦などが増えてくる鎌倉時代では武士の間でも家紋が広がり、
合戦などで敵味方を区別するために様々な道具に家紋が入れられ、
武士の間でどんどん家紋が広がっていきました。


江戸時代になると戦も少なくなり、合戦における敵味方の区別のための家紋の
役割も変化し、権威の象徴としての家紋に変わっていったそうです。
また、日本では、武士だけではなく、
一般市民も広く家紋を用いるようになっていきます。
百姓、町人、役者、芸人、遊女などといった当時、社会的に低い身分の
人達も家紋を用いていたそうです。
この点は貴族などしか紋章が許されていなかったヨーロッパとは対照的な
ことだったそうです。
だからこそ、うちの祖父の家にも家紋があったのですね。
また、幕末の頃にはこれら日本の家紋のデザイン性が
海外で評価されるようにもなります。
確かに、様々な家紋を見ているとその丸みをおびた形の美しさや
左右対称の美しさ、細かいものをデザイン的に表現する感じや、
花や動物などを抽象的に表現された家紋を見ているとうっとりしてしまいます。
これを見ているだけでもなんだか刺激されてきますし、
家紋のシールがあれば、好みのものなんかをいろいろな所に貼ってみたいななんて
思ってしまいます。


「家紋」と検索して、様々な家紋を見るだけでも
こんなに種類があるんだということ、そしてそのデザイン性の
高さにうっとりしてしまいますよ。
家紋、何かに使えるかもしれませんね。

2015年6月14日日曜日

やりはじめないと

ほぼ日手帳を使って2年目になります。1ページ1日なのですが、
そのページの下の部分に「日々のことば」というスペースが
あり、そこにほぼ日サイトに掲載されたインタビュー、対談、言葉の
中から印象的な言葉が掲載されています。
その「日々のことば」の中のひとつを最近、よく思い出しています。


『やりはじめないと、やる気は出ません。
脳の側坐核が活動するとやる気が出るのですが、
側坐核は、何かをやりはじめないと活動しないので』

なんだか、びびっときませんか?
これは池谷裕二さんという方の言葉です。
「脳には妙なクセがある」という様々な
脳に関する研究結果を分かりやすく解説してある
本なんかを書いておられます。


で、この言葉を見つけてから、このことを結構意識したりします。
「あ〜あれ、やっておかなきゃならなかったな〜」
ということってありますよね。
面倒だな〜と思いながらもしなきゃいけない。
でも、面倒だからなかなか動けない。
でも、しなきゃいけないから(しておきたいから)、ずっと
心の奥に残って、こちらに揺さぶりをかけてきます。
そんな時に、この言葉を思い出して、
「とりあえず動いてみるか」と腰をあげると、
だんだんスイッチが入って、始める前よりも割と
積極的に取り組んでいたりして、楽しくなっていたります。
きっと側坐核が動いているのでしょうね。


動かないとやる気が出ないを体験して知っているのに、
それでも「ん〜面倒だな〜」と思ってしまう自分がおもしろいですね。
でも、そんな体験を繰り返していくと、「動けば、楽しくなるさ」と
より思えてくるかもしれませんね。


昔ある人が「体から脳を支配する」ということを
言っておられました。当時はそのことがどういうことか
さっぱり分からなかったのですが、
この側坐核の話はそんなことと通じてくるのかもしれませんね。


「とりあえず動いてみる
そして(だから)楽しくなる」は覚えておきたいなと思います。






2015年6月7日日曜日

サル

自然の多い所に住んでいると、猪や猿といった生き物の
目撃情報をよく耳にします。実際に自分の目で見ることもあり、
いくら目撃情報があるからといっても、やはりそんな時には
「おお!」と驚いてしまいます。


そんな割と身近な存在でもある猿なのですが、
人と同じ昼行性で、日中に行動し、夜は寝るという活動サイクルのようです。
1日の活動は朝、夜が明け始める頃から活動を開始して、
食べ物を探して、食べたり、休息をしたりを繰り返します。
そして、日が暮れてくるとその日の泊まり場を決め、移動をやめて
眠りにつくそうです。このような生活を遊動生活と言うのだそうです。


ニホンザルは特定の巣を持たず、毎日泊まり場は変わるそうです。
確かに、そういえばサルの巣というのはあまり聞いたことがありませんね。
主に外敵に襲われにくい急斜面の森を泊まり場にするそうです。
季節に天候によっても変わり、木の上や根元、岩場などでも眠ります。
寝方は仲のいいもの、兄弟姉妹、親子など複数で体を寄せ合い寝るそうです。
また、単独の場合はしゃがんで手足を抱えた姿勢で眠ります。
なんだか単独の場合はちょっと寂しそうでもありますね。


サルは巣を持たないため、排泄を決まった所ではしないそうです。
ですので、所構わず排泄をします。そのため、排泄のしつけはできないそうです。


また、佐賀県が出している「サルやイノシシに出会った時の対応の手引き」には
このように書かれています。
「一般的に野生のサルはこちらが何もしなければ襲ってくることは
ほとんどありません。サルに出会った時には、おどかしたり、刺激しないで
落ち着いて、その場から立ち去ってください。サルと目線を合わせると威嚇された
と思い、人が視線をそらせた時に襲う場合があります。サルの目をみないでください」
とあります。
サルを見つけるとついつい見てしまいますが、もしかすると
それだけで威嚇していると思われるのかもしれませんね。


他にも視覚、聴覚、嗅覚は人間と同等とありました。
これにも驚きました。もっと嗅覚は凄れているのかと勝手に思っていました。
視覚も人間と同じくらいということはちょっと離れた所でサルを見つけた場合、
サルの方もこちらが見ているということにもなるのかもしれませんね。

サルの存在がそんなに遠いものではないので、
このような生態や対処法は少しは知っておいた方がいいのかもしれません。
相手のことを理解してこちらの行動を決めるということが
生き物との共存であるのかもしれませんね。


2015年5月31日日曜日

生物多様性

少し前の話しになりますが、5月22日はある記念日でした。
それは「国際生物多様の日」というものです。
生物の多様性が失われつつある現状、
またそれに感じる諸問題の認知を広めることを目的に制定されました。
また、国連ではこの日に植樹を行なおうということも呼びかけているそうです。


そんな生物多様性ですが、まだまだ一般的な言葉ではないようで、
どんなものかイメージするが難しい面もあるのかもしれません。
養老孟司さんの「いちばん大事なこと」という本の中にはこのように書かれてあります。





まず、なぜ、生物多様性を保護する必要があるのか、「時計を分解するのは簡単だが、もう一度組み立てろと言われたら、まず不可能であろう。人体となれば、いったん壊したものをもとに戻すのは、不可能である。システムは複雑なものだが、それを破壊するのは極めて簡単なのである。他方、システムを作り上げるのは現在までの人間の能力ではほとんど不可能である」とあるように生物が作り上げている巨大で複雑なシステムを破壊した場合、もとに戻すということはほとんど不可能ということになります。


また、絶滅種の話しでは、「絶滅しそうな生物を保護しても、自然というシステムからはすでに切り離されている。自然というシステムから見れば、絶滅しているのと同じことである。絶滅したって困らないと考える人もいると思う。こういう発想が出てくるのは、ある生物が絶滅しても、それが自分にどう跳ね返ってくるか、見えないからである。自然というシステムはたくさんの生物が影響しあって微妙なバランスを保っている。だからそれが欠けた時にどんな影響が現れるかは、よく分からない。これを逆向きにいうと、システムを構成する要素は、システムを維持するためにいつもなんらかの役割を果たしている可能性があるということになる。だからシステムの構成要素をいたずらに減らすことは慎むべきなのである。自然がシステムであると分かれば、ある生物が別の生物よりも大切だとか、この生物は要らないという発想は出てこない。どの生物も生きていることが大切だと分かるはずである」


本の内容を中略してまとめているので、
意味が分かりにくい部分があるかもしれませんが、
生物多様性とはどういうもので、なぜそれが大切なのかが、
修復不可能なシステムであることからも感じれます。
また絶滅の話しでもありましたが、
生物多様性を構成する生物に優劣がないということも大切な部分であるように思います。
これはきっと人間社会でも同じことではないでしょうか。
どの生物も生きていることが大切で、
大きなシステムの一部を担っていると
思えることで、生物だけではない、
人への関わり方も変化が生まれるように思えてきます。
私も含め、個人が大きなシステムを担っている一部だという感覚は今の時代、
薄れている部分でもあるのかもしれません。
生物多様性を考えることは、私たちの生き方にも影響してくるのかもしれませんね。

2015年5月24日日曜日

マンホールの蓋

様々な場所を訪れると、その土地によってマンホールの蓋のデザインが
違うので、おもしろいなとついつい目がいってしまいます。
いくつか写真に撮っているものもあったりします。
そんな、マンホールの蓋なのですが、今日、近所を散歩していて、
自分が住む町にある蓋のデザインを見た時に、
マンホールの蓋のデザインって誰が決めているのだろう?と疑問が湧いてきました。


まず、現在の蓋の原型は明治から大正にかけて東大で教鞭をとると同時に、
内務省の技師として、上下水道の指導をしていた中島鋭治さんという方が
東京の下水道を設計する時に西洋のマンホールを参考に考案されたそうです。

ちなみにマンホールという言葉はman(人)、hole(穴)を組み合わせたものだそうです。
丸い形は蓋が穴の中に落ちないためであったり、
穴が開いているのは大量の雨水が管内に流れ込んできた時に、空気の逃げ場がないと
蓋がとんでしまうから蓋には穴が開けられています。
また、蓋の表面には車などが滑るのを防止するための凹凸があります。


で、デザインなのですが、昭和30年代に入って、大阪市や神戸市などが
独自の市型模様を定めて使用してきました。同時に構造などの開発に
当たった製造メーカーを中心に独自の模様が考案され、広まっていったそうです。
そこから昭和60年代に入り、当時の建設省公共下水道課建設専門官が
下水道事業のイメージアップと市民アピールのために、各市町村が独自の
オリジナルデザインマンホールにすることを提唱したことから、
デザイン化が進んだそうです。
下水道事業のイメージアップということから始まったのですね。
デザイン決定には、一般公募や役所の職員が考えたり、メーカーが考えたり
するものもあるようです。


下水道事業のイメージアップということから始まったのですね。
その後、デザインを競うコンテストのようなものも行なわれるようになり、
どんどん、デザイン化が進んだようです。


また、おもしろいのがマンホールのデザインに要求されるいくつかの点があるようです。

①飽きがこない
モチーフを生かした幾何学的模様など、長期間の使用に
耐えるデザインであること。


②非方向性
一方向だけから見た場合に、意味のわかるデザインでな
く、極力方向性のないデザインがのぞましい。

③耐久性
長期間の間に模様が磨滅されるが、磨滅による味わいがでるようなデザイン。

④素材感
鋳物の重量感、暖かさを感じるデザイン。

⑤地域個性
単純発想でなく、表現工夫がなされたデザイン。

⑥スリップ防止
道路と同等の走行性を持たせ、安全性を配慮したデザイン。


このような視点で様々な場所のマンホールを見るとまた違ったおもしろさを
感じれるかもしれませんね。他の地域のマンホールのデザインも気になってきました。
しかし、デザインもいいのですが、近年ではデザインを重視するばかりに
スリップを防止するという安全性が忘れられているものも見られるそうです。
デザインの素晴らしさももちろん大切ですが、
それは本来の目的があってこそなのかもしれませんね。
私自身もしっかりとそういう部分を大切にしないとなと
マンホールのことを調べていて教えてもらいました。

2015年5月17日日曜日

黄泉比良坂

先日、「黄泉比良坂(よもつひらざか)」という場所を訪れました。
この場所は日本書紀において、あの世とこの世の境界の場とされている所です。
「ひら」は崖を意味するとされているそうです。





どうして、この場所があの世とこの世の境界なのかといいますと、
男神イザナギと国造りをした女神イザナミが火の神である迦具土神(かぐつち)を
産んだために亡くなってしまいます。
イザナギは悲しみ、黄泉の国に行き、イザナミに会おうとします。
そして、イザナミに一緒に帰ってほしいことを伝え、イザナミは黄泉の国の神々に
相談しようとします。その間、私の姿は絶対に見ないでほしいと
イザナギに伝えます。しかし、なかなか帰ってこないイザナミだったので、
イザナギは周囲を照らし、辺りを見てしまいます。
すると、そこには体が腐敗したイザナミの姿があったそうです。
イザナギはそれを見て、逃げるのですが、イザナミは鬼女をつかって
追いかけます。しかし、鬼女はイザナギが投げた葡萄や筍を食べるのに忙しく
なってしまい役に立ちません。すると次は雷神や鬼の軍団を送りこみます。
そして、イザナギはこの黄泉比良坂まで、逃げ帰り、そこにあった
桃の実を投げ、追ってを退けます。


最後にはイザナミが追ってくるのですが、イザナギは千引(ちびき)の岩を
黄泉比良坂に置いて、道を塞ぎます。



なんだかちょっと怖い話ですね。
この話にはまだ続きがあって、
黄泉の国から帰ったイザナギはけがれを落とすために泉でみそぎをします。
その時に左目から生まれたのが天照大神で、
右目から生まれたのが月読命(つくよみのみこと)で、
鼻から生まれたのが須佐之男命とされています。
ということで、この黄泉比良坂は神話のルーツではないかとも言われています。
ですので、黄泉の国を根の国する説があり、これが
「島根」由来になったのではないかとも言われているそうです。


まだまだ多くの神話が残されていますが、
この神話というのは不思議ですね。
真実なのか、作られた話なのか。
神話はこの世界の成り立ちの話でもあるように感じます。
かつての人々のこの世界を知りたいという思いでもあるのかもしれませんし、
そよりももっと前から語り継がれてきた真実でもあるのかもしれません。
何が嘘で、何が本当ではなく、
私たちが生まれる前には当然ですが、たくさんの人々がいて、
そんな人々の思いや、時代がこの神話に込められていることを
考えると、想像の話という解釈ではない、
人の歴史を感じるようでもありますね。




2015年5月10日日曜日

京都

祝日を利用して、京都へ旅行へ行ってきました。
今回は新幹線に乗りたいという気持ちも強かったので、広島から京都まで
のぞみに乗り、1時間50分ほどの新幹線も楽しみました。

まず向かったのは平等院鳳凰堂です。少し前に読んだ本にこの平等院鳳凰堂と
極楽浄土について書かれてあったので、
ぜひ見てみたいと思ったので行ってみることにしました。




次に訪れたのは「寺田屋」です。竜馬がゆくを読んでいる私にとっては
かなり気持ちの高まる場所でした。
寺田屋といえば有名なのが、坂本竜馬が暗殺されかけた場所ということですね。
夜中に京都伏見奉行の者たちが寺田屋に踏み込み、竜馬を暗殺しようとしますが、
竜馬は拳銃などで応戦し、なんとか逃げ切ります。
その弾痕や刀痕が寺田屋には残っていて、なんとも竜馬を感じる場所になっています。
しかし、どうも本物の寺田屋は鳥羽伏見の戦いで燃えてしまっているというのが
事実なようで、現在残っているものは後に再建されたもののようです。
でも、いいのです。気持ちが大切ですから!


(表札に寺田屋 坂本龍馬と書いてあるのがなんともユーモアを感じます)


そして、次の日は竜馬のお墓にも行ってきました。
坂本竜馬の墓は京都にあり、維新の道というなかなかの坂道を上がった先にある
東山霊山という場所にあります。ここには霊山護国神社があるのですが、
そこには1043名もの維新志士たちが弔われていて、その中には今、大河ドラマにも
登場している、高杉晋作や桂小五郎、久坂玄瑞の名前もありました。


 竜馬の隣には一緒に近江屋で暗殺された中岡慎太郎も弔われています。
竜馬の墓からは京都の町を眺めることができます。京都の町を見ながらか眠って
いるのかもしれませんね。 


近くにあった霊山歴史館にも行きました。幕末で活躍した人々の紹介や
展示もあり、かなり楽しめました。



最後に訪れたのは「建仁寺」です。
建仁寺は1202年に源頼家によって創建されたお寺です。
お寺の中は撮影自由ということでした。これは嬉しいですね。
入ってすぐ、あの有名な「風神雷神図」がありました。
たっぷりととられた余白が広い空間を暗示し、風神雷神のダイナミックさを
引き立てているそうです。複製らしいのですが、
その迫力はかなりなもので、ずっとその前で座っていてもいいようなそんな気分にさせて
くれました。


庭もかなりきれいでした。

そして、一番見たかったのがこの双龍図です。大きな天井一面にこの龍の絵が
描かれているのはなんとも圧巻です。龍は仏教を守護する八部衆(仏法を守護する8神)とされ、「龍神」とも言われているそうです。そのため、多くのお寺では
法堂という大衆に仏法を説く場所に描かれているそうです。これは龍が水をつかさどる
ことから「火災から守る」という意味が込められているそうです。
建仁寺のこの龍は2002年に創建800年を記念して描かれたものです。


1泊でしたが、とても楽しめました。