2015年1月25日日曜日

落語

落語に触れる機会があったので、いろいろ調べてみました。
まず、落語とは滑稽話を中心としたもので、
落ちを持つ「落とし噺(ばなし)」のことを指すのですが、
現在では人情話、怪談話も含めた総称として用いられるそうです。


「落ち」という言葉はよく聞きますよね。
「お前の話しには落ちがない」なんて言われることもありますが、
日常の会話で落ちを意識する人はそんなにいないかもしれませんね。


落語の噺は落ちだけではなく、
「マクラ、本題、落ち」が基本構造になっています。
マクラは本題への導入部分で、本題に入る流れを作ったり、
本題の中にある分かりにくい言葉などの
説明をさりげなく入れたりする部分であると言われています。
そして、本題の噺があり、落ちへつながっていくというのが
落語の基本的な流れになっています。


ちょっと話しはズレますが、
落語は江戸落語と上方落語(大阪や京都を中心とする)に大きく分けられます。
江戸と上方の違いとしては言葉ももちろん違うのですが、
上方にはあまり人情噺がないとされているそうです。
これは、上方では浄瑠璃があったので、落語が人情噺を受け持つ必要性が
あまりなかったのではないかとも言われているそうです。
当時の時代背景なんかも感じれるおもしろい話しですね。


話しがズレてしまいましたが、
落語の「マクラ」という部分はおもしろいなと思いました。
マラクはお客さんが本題に入りやすい状態を作るためのものですが、
「話す」のではなく、「振る」とも言うそうです。
それは、マクラで「お客さんを振り向かせる」という意味でもあるそうです。


本題の内容が理解できるように説明をちょっとした噺と一緒にしてみたり、
こちらの方を振り向いてもらうために、相手を引き付けたりと
人を楽しませるための工夫が「マクラ」でもあるのかもしれませんね。
立川志の輔さんという落語家さんが「落語はアートとサービスの間だ」
というようなことも言われていますが、
これは、相手に合わせた関わり方を大切にするということでもあるのかもしれません。


お客さんに合わせて噺を変えてみたり、
分かりやすく説明することがあったりと
落語を見ている人に楽しんでもらいながら、
落語の良さも感じてほしいというそんな思いも感じるような言葉だなと思いました。


相手があってこそのものなのかもしれませんね。
私自身、とんでもなく下手なのですが、そんな落語を
子ども達の前で披露することがあります。
落語の中にあるちょっとしたでも、大切なそんな思いを
大切にしたいなと思いました。


2015年1月18日日曜日

食べ残し

先日、ラジオを聴きながらランニングしていた時に、
食べ残しについての話題が語られていました。



「食べ残し」はあまりよくないことですね。
日本国内における年間の食品廃棄量は、食料全体の2割にあたる
 約1800万トンと言われています。このうち、期限切れの食品、
食べ残しなどの本来は食べられたはずなのに破棄されたものは500万トン〜800万トンと
されているそうです。
ちょっと実感のわかない数字ですが、日本人一人当たりに換算すると、
毎日おにぎり1〜2個分が捨てられているという計算になるようです。


そんな中、食べ残し対策が様々な所で取り組まれているようで、
長野県では「今日からできる3つのエコ活」ということで、
①店では「買いすぎない」
②家では「作りすぎない」
③外では「頼みすぎない」
ということが提案されています。


(まず、僕は頼み過ぎないということを心がけたいなと思います)



よく、子どもたちが食べ残したりすると「もったいから最後まで食べなさい」
と声をかけたりすることがあるかもしれません。
出されたものを最後まで食べるということが大切だということなのでしょうか。
もちろん、それも大切なのかもしれませんが、
もっと大切なのは「自分が食べれる量を知ること」や
「それに応じた食べ物を選択する」
ということなんじゃないかなとラジオを聴いていて思いました。


そうなるとそれは食べ残しだけに注目するのではなく、
状況に合わせた選択を自分で考えることができる力でもあるのかもしれません。
自分の気持ちをコントロールするということでもあるのかもしれません。
それが「3つのエコ活」の中でも出てきた
「○○し過ぎない」という言葉につながるように思います。


食べ残しだけに注目するのではなく、
もっと広い視点で子どもと関わりたいなと思います。








2015年1月11日日曜日

こっちの気持ちの問題

先日、友人と初詣に行きました。
正しい順路やお参りの仕方、作法などを友人に
教えてもらいがら参拝をしました。


いろいろと教えてもらいながら、ふと疑問に思って、
「え、なんでそうするの?」
「どういうことなの?」
という感じで、いろいろ聞いていた私なのですが、
それに対して友人が、
「こっちの気持ちの問題なんじゃないの」と言ったんです。
もう、それがすごく腑に落ちたというか、納得したんです。


手を洗う動作にしても正しい順番、やり方が
ある訳なんですが、そういうことを丁寧にやる、
順序正しくやるという素直な気持ちが参拝する時には
必要なのかなと友人の言葉から感じました。


これ、自分の中ですごく納得したんです。
これから様々な神社に訪れる時の
気持ちがきっと変わるんだろうなと思える言葉でした。


大切なのは参拝する側のこちらの気持ちなんですよね。
「そんなの当たり前でしょ」
と言われてしまうかもしれませんが、僕にとっては
とても新鮮な気づきになりました。



2015年1月4日日曜日

出雲大社周辺

友人と初詣に出雲大社を訪れたのですが、
「ちょっとブラブラしよう」ということになり、
出雲大社周辺の町を散策することになりました。




僕は細い路地が好きなので、そんな路地を進んでみたり、
昔ながらの呉服店や凧専門店のようなものを見つけたりと
なかなか刺激的な時間になりました。
そんな中で「出雲阿国の墓」という表記を見つけたので、
行ってみることにしました。
最近、歌舞伎を見たということもあり、自分の中で歌舞伎熱が
ちょっと上がっているのでなんとも不思議な巡り合わせのように感じました。



出雲阿国というと出雲生まれで、出雲大社の巫女となり
出雲大社の本殿修理費を集めるために諸国を歩き回る中で、
様々な所で踊りを披露していったという話が残っています。
そんな中で、男装をして舞台で踊りを披露する「かぶき踊り」をしたことから出雲阿国が
歌舞伎の祖であると言われています。
もともと神に捧げる舞や踊りを庶民を楽しませるためのものにした
のが出雲阿国ではないかと言われているそうです。


しかし、本当に出雲で生まれたのかということも定かではない
ということらしいのですが、歴史のことは全てが詳しく残っている訳では
ないので、そういう部分もあるのかもしれませんね。


たまたま歩き回ったことで出雲阿国のお墓(このお墓も定かではないそうですが)
に訪れることができました。
結局、距離にすると13㎞もブラブラしていたみたいです。
最後にはそれはそれは美味しい最中も食べることができました。
同じ県とはいえ、知らないことがたくさん見つかるのはおもしろいですね。