2015年4月26日日曜日

萩日記

5月頃に予定していた「花燃ゆ」を感じる萩の旅を、一緒に行く
予定だった友人と休みが合うことが分かったので、先日、予定を前倒し
して訪れることにしました。
まず、訪れたのは「大河ドラマ館」です。ここでは、俳優さんたちの
メッセージやドラマのセットがあったりとなかなか楽しめました。



松蔭先生が出す質問に答えると9人の塾生のうち、誰に一番似ているのか
ということを教えてくれる機械もあり、試してみると「久坂玄瑞」
という結果になりました。



大河ドラマ館は明倫小学校の敷地内に作られていて、同じ敷地内に明倫館の
跡も見ることができます。写真は明倫館の南門になります。
この明倫館は長州藩の藩校であり、日本三大学府の一つとされています。
この明倫館の出身者には、桂小五郎、吉田松陰、高杉晋作などがいて、
ドラマの中でも出てくる場所ですね。


また、同じ敷地内には有備館という剣術や槍術の稽古場もありました。




 これは水練池です。藩校の水練池は日本ではここしか残っていないそうです。



 次は実際にドラマの撮影で、大沢たかおさんが走った藍場川へ行ってみることに。
iPhoneで調べるのもいいのですが、たまにはということで、
地図を見ながら行ってみることにしました。



この藍場川は18世紀6代目藩主の毛利宗広が岡山城下に立ち寄った際に、
溝を作り城下へ水を引き入れることで、城下の経済が潤い、
また生活にも活用されている様子を見て、それを真似して作ったとされています。

そんな藍場川沿いをゆっくり歩きました。鯉もたくさんいて、静かで
気持ちのいい場所でした。


川沿いでこんな物も売られていました。




道の駅にあった銅像です。


続いて訪れたのは「涙松遺跡」です。
この先から左へ道が折れるので、城下が見えるのもここで最後になります。
松並木の間に見え隠れする萩を見返り、別れの涙を流すというので、
「涙松」と呼ばれているそうです。
吉田松蔭も安政の大獄で江戸へ送られる際に
「かえらじと思いさだめし旅なれば、一入(ひとしき)ぬるる涙松かな」
と詠んだとされています。



この先に涙松遺跡があります。どんな気持ちでここを通ったの
だろうかとちょっと想像しながら歩いてみました。


次は野山獄、岩倉獄へ。
野山獄は海外密航に失敗した吉田松蔭が投じられていた場所になります。
ドラマでも出てきましたね。
反対には岩倉獄があり、こちらには一緒に密航しようとした金子重輔が
投じされました。


野山獄、岩倉獄の由来には驚きました。


そして、萩美術館にも。萩焼きはもちろん、歌川広重の「堀切の花菖蒲」
も見ることができました。


最後は明神池へ。
笠山というところにあり、昔、笠山と本土との間に砂州ができて陸続きに
なった時に、埋め残されてできた池が明神池になるそうです。
池は溶岩塊の隙間を通じて外海とつながっていて、潮の干満も見られるそうです。
行ってみると、海の匂いがしました。
また、マダイ、イシダイ、コチ、エイ、スズキ、ボラと池の中には様々な魚が
いるそうで、天然の水族館とも言われているそうです。



浅瀬にたくさんの魚がいるので、よく見えてまさに水族館でした。


明神池の敷地内に風穴という所もありました。
この辺りには、溶岩ブロックの隙間から風が出入りする風穴が多く見られるそうで、
なかでもここの風穴が一番大きなものだそうです。
真夏でも15℃くらいの冷たい風が吹き出しているそうです。
本当にここの場所だけ、寒さを感じました。夏に訪れるときっと涼しいんでしょうね。


1日でいろいろな場所を巡りました。実は昨年の6月にも訪れているのですが、
まだまだ行ってみたい所があります。
萩はそんなに大きな町ではないのですが、興味をそそる場所がたくさんあります。
人の思いや昔の人が暮らしていた場所が歴史として残っているこの町は
おもしろいですね。


2015年4月19日日曜日

島根県のこと

歴史を知るのはおもしろいことだなと思います。
とは言っても歴史について、詳しくはないのですが、
歴史を知ることで、今の生活が歴史の上といいますか、
つながりを持っているんだな感じることができるので、
なんだか嬉しくなります。


で、思ったのが自分が住んでいる県の歴史を全然知らないじゃないか
ということなんです。なんなら今の県の様子も分かっていないかもしれません。
そんなことで島根県についてちょっと調べてみました。


まず、1869年の版籍奉還によって、各藩の管理下にあった土地や人々が
新政府に属するものとされました。そして、各藩の藩主は藩知事となり、
中央から任命される形で各地を統治する役目を担うことになりました。
その後、1871年には藩も廃止され、その代わりに県を置くという
廃藩置県が行われます。授業で聞いたことのあるあれですね。
廃藩置県の直後は今まで藩だった領地をほぼそのまま県に行こうしただけだたので、
全国で3つの府と302の県が成立したそうです。
全部覚えられそうもありませんね。


で、島根なんですが、廃藩置県の直後は松江県、母里(もり)県、
広瀬県、浜田県の4県が置かれたそうです。
母里県と広瀬県はいずれも現在の安来市付近になりますが、
どちらも領地は大変狭いものだったそうです。


次に県西部の石見地方ですが、当時は浜田藩、津和野藩が存在していました。
浜田藩は長州征伐(長州藩と幕府との戦い)に際し、幕府側について参戦した
そうなのですが、敗退してしまいます。そのため、長州藩に占領される
ことになります。なんだか、放送中の大河「花燃ゆ」につながる感じが
してわくわくしますね。
しばらくは長州藩の支配にあったのですが、1869年に大森県が置かれた
ことにより、長州藩の占領が終わりを告げることになります。
大森県は銀山のあった大森に県庁を置いていたそうですが、
1870年初旬に大森から浜田に県庁所在地が移され、大森県は
浜田県と改称することになったそうです。
大森県もあったということは、
1869年の版籍奉還の時点では、廃藩置県後の4県よりも
もっと多くの県が島根にはあったのでしょうね。


また隠岐は江戸時代、松江藩の支配下にあったそうなのですが、
1869年には隠岐県が置かれ、松江藩から独立します。
しかし、同年、大森県(浜田県)の管轄に組み込まれることに
なったそうです。隠岐と浜田では距離もかなり離れているのに不思議ですね。


このように現在よりも多くの県が置かれることになったのですが、
多くの規模、境界を持つ県があり、その後の県の運営に支障をきたすのでは
と考えられ、県の整理、統合が行われていきます。
ますは1871年に松江県、母里県、広瀬県が統合され、島根県が成立します。
ここで、やっと島根という言葉が出てきました。
さらのこの島根県に浜田県から分離した隠岐県が組み込まれることに
なったのですが、同年12月に隠岐県は鳥取県に移ることになります。
ちょっと隠岐は振り回されすぎではないかと思ってしまいますね。
一方、浜田県は、まだまだしばらく浜田県として存続していきます。


そしてようやく、5年後の1876年に浜田県は廃止され、島根県に統合され、
新生、島根県が置かれることになります。
どうして浜田県の統合はそんなに後になったのですかね。
やはり距離の問題だったりするのでしょうか。
島根県は東部と西部ではかなり距離が離れています。
現在でも東部と西部には妙な壁があるように感じてしまいます。
東部の人からすると、西部が同じ島根県であるという意識はもしかすると
あまり強いものではないのかもしれません。
それはまた西部の人もそうかもしれません。
時、浜田県と別れていたことも関係しているんですかね。


またある時期、鳥取県と島根県が一緒になり、島根県という
管轄にもなっていたそうです。後に反対運動が起こり、
鳥取県と島根県は分離されたそうですが、知らないことはまだまだありますね。





2015年4月12日日曜日

方法論

先日、朝の番組で「帰省のモヤモヤ」という特集があり、その中で、
年末年始に実家に帰りたくない原因として嫁姑の人間関係が取りあげられていました。
「姑とどう関わればいいのか」
「嫁とどう関わればいいのか」
という話が展開されいました。そんな番組をしばらく見ていて、
あることを思いました。
それは「関わり方の正解、方法論、法則」を僕たちは見つけようと
しているのかもしれないということでした。


「姑にはこう関わればいい」、「嫁にはこう関わればいい」
ということを知りたい。それも楽して知りたいという部分があるのかもしれません。
「こうしておけば大丈夫」ということを知っておきたい。
という気持ちは情報がたくさんある今の世の中では
もしかすると当然な思いなのかもしれません。
僕自身もそんな思いになります。


ですが、姑さんもお嫁さんもみんな同じ考えでないですよね。
みんなそれぞれ違っています。
それぞれに違うのだから関わり方も
それぞれに違ってきます。
それなのに、その人を見ずに方法論ばかり知ろうとするのは
なんだかちょっと違うのかなと思ってしまいました。
その人のことをしっかり見れてないということにもなりそうです。


嫁姑の問題に関わらず、僕たちは何か正解やこうしたら大丈夫という
方法論や法則に頼ろうとしすぎなのかもしれません。
それは、なんだかちょっと自分中心なのかなとも思ったりします。
人との関係は、その人と付き合っていくなかで
それぞれの関わり方を学んでいくのかなと思います。
まずはその人と関わって、その人を知ることが大切なのかなと見ていて感じました。
それは、相手に合わせることでもあるのかもしれません。


そんなことを
「自分はそれ、できているのかな」と自問しながら、
人と関わっていきたいなと思いました。








2015年4月5日日曜日

お風呂

日本でお風呂というと、浴槽に湯をためて、ぐ〜っと伸びをして、
割と長い時間浸かって、1日の疲れをとるというようなイメージがありますが、
どうもそれは世界ではちょっと違うようです。


欧米などではシャワーが一般的で、ロンドンオリンピックの選手村でも、
半分ほどはシャワーしかついていない部屋だったそうです。
国によっては毎日はお風呂に入らない、シャワーもしないという
ところもあるそうです。


なぜ、このようにシャワーが主流になったのかというと、どうも
宗教などが関係しているそうです。
かつて、古代ローマにも、イギリスにも大浴場があり、
入浴を楽しんでいたようです。「テルマエロマエ」の世界を思い浮かべると
想像できそうですね。
そんな入浴ですが、宗教で「快楽」を禁止したために、
なくなっていったのではないかと言われています。また、伝染病が流行したから
という説もあるみたいです。


そうなると、日本のお風呂の歴史にも気になってきます。
日本のお風呂の歴史は6世紀頃が始まりだとされています。
仏教が伝わるとともに、中国から伝わってきたそうです。
仏教では、お風呂に入ることで、「七病を除き、七福を得る」とされ、
健康にいいと理解されていました。そのため、寺院では浴堂が備えられ、
庶民に入浴を施したことから、お風呂に入る習慣が生まれたのではとされています。


お風呂は江戸時代に大きく変化していったようなのですが、
それまでは「お風呂」と「湯」は区別されていたそうです。
「湯」は体を浸すものでしたが、「お風呂」は蒸し風呂のようなもので蒸気を
発生させ、その蒸気によって、蒸らされた体を擦ることで垢を落としていたようです。
今のサウナのようなものですね。
ちなみに、この「お風呂」の後に着替えるものを包んでいたのが「風呂敷」
だそうです。また、実際にお風呂にも敷いていたそうです。
蒸気が出ているお風呂だったので、そんな布を敷くことでちょうどいい
感じになっていたのですかね。


そして、江戸時代に入ると銭湯がうまれ、庶民が銭湯を楽しむという
銭湯文化がうまれていったようです。まだまだ細かく調べると、様々な
形態のお風呂があるようです。


そして、現代では日本では各家庭に必ずといっていいほど、浴槽があり、
入浴を楽しんでいますね。
お風呂一つとっても、世界と日本では違いますし、
日本においてもその歴史を知ると、今のお風呂が昔から当たり前ではなかった
ということを知ることができました。
形は違いますが、お風呂は日本人には馴染みの深いものだったのですね。
どうして、そんなに日本人はお風呂が好きなのでしょうか。
気持ちがいいからというこはもちろんなのかもしれませんが、
お風呂が伝わってきた時の「七病を除き、七福を得る」という
考え方が染みついているからでしょうか。


(ランプの湯)