所ジョージさんの言葉や行動は時に強引なこともあるのですが(でも、一切他人には迷惑
をかけていないんです)、納得してしまう言葉も多く、僕の中では魅力的な存在です。
そんな所さんの言葉で「面倒くさいことが幸せなんだから」というものがあります。
最初はなんのことだかよく分かりませんでした。
今も「これだ!」という理解はしていないのですが、なんとなく、以前よりは「こんな感じのこと?」と思えるようになってきました。
そんな所さんの言葉と最近読み終えた【脳には妙なクセがある/池谷裕二】という本の内容が自分の中でリンクしました。
『ヒトの脳は身体の省略という美味しい芸当を覚えたがゆえに、身体性を軽視しがちです。身体を動かさずに、頭の中だけで済ませた方が楽なのはよく理解できます。しかし、脳は、元来は身体とともに機能するように生まれたものです。手で書く、声に出して読む、オモチャで遊ぶ.......活き活きとした実体験が、その後の脳の実体験に強い影響を与えるだろうことを、私は日々の脳研究を通じて直感しています』
『精神と身体は切り離して考えることはできません。心は脳にあるのではありません。心は身体や環境に散在するのです』
身体を使うということは面倒なことだと思います。動くというのは面倒なことなのかもしれません。それなりに筋肉を使います。神経も使います。そうすると疲れてしまいます。現代はその面倒くささをなんとか最小限に抑えて快適に生活しようとしてきたんだろうと思います。だからこそ、この身体を使うということが重要になってくるのかもしれません(この辺りは養老先生の話とかなりリンクするように思います)。
最後にネズミを用いたとある実験を紹介しています。
実験者がネズミのヒゲにモノを接触させた時のニューロンの反応と、ネズミが自らヒゲを動かして、モノに触れたときのニューロンの反応を比較した実験です。
ネズミ自らヒゲを動かした場合、そうでない場合と比べてニューロンの活動が10倍も強く活動したそうなんです。
ネズミが自ら身体運動をすることで脳はどんどん活動した.......なんだかとってもつながりそうなお話ですね。
2012年9月14日金曜日
2012年9月8日土曜日
こちら側からあちら側へ
「なんとかここまでできるようにしてあげよう」
気がつけば強引になっているのかもしれないし、迷って動けないこともあるし。
「こうなれるようにしてあげよう」
というような言葉や姿勢?やり方に違和感を覚えることがあります。
「こうなってほしいと思う側」がいて、その「こうなってほしいと思う側」はなんとかその対象を「こうしよう」としている感じがするんです。
もちろん、そこに悪気なんてないんだと思います。
「こうなってほしい」にはどこか結果が即効的に求められるような気がします。
運動における技術の向上とかだとなんとなく受け入れやすいのですが、
例えばそれが人に向いた時に、やっぱり違和感を覚えるんです。
「こうなってほしいと思う側」の思いが強過ぎてしまうと「強引」になってしまうこともあるのかな。強引な姿勢は相手が人だった場合にはいろいろと問題も起きそうな気がします。
なんでしょう.....相手の気持ちを置いていっちゃている感じなのかな?
「こうなってほしい」の軸は「こうなってほしいと思う側」にあるんですかね?
もちろん「こうなってほしい」と思うことは大切なことで、考えていかなければいけないことだと思います。
それが、「こうなってほしいと思う側」に軸があるより、
「こうなってほしいと思う対象」に軸がある方が、その対象に寄り添っていけるのかなと思ったり。強引な感じにならないのかなと思ったり。
分かってなんていません。だから迷ってるんですよね。
気がつけば強引になっているのかもしれないし、迷って動けないこともあるし。
まだ、考えているだけです。動きには表れていないと思います。
無能さに気がつく毎日です。
2012年9月4日火曜日
しつ
僕は学生時代、剣道をしていました。中学校から始めて、高校までの6年間です。
高校の時には剣道を専門的に教えてくれる顧問の先生はいませんでした(外部のコーチはおられましたが、僕たちが高校2年の時に亡くなられました)。
ですので、優秀なキャプテンを中心に練習メニューや大会までの練習計画などは自分たちで考え、お互いに指導し合いながら毎日稽古をしていました。
その中で、稽古をするにあたり『量』を大切にするべきなのか、それとも『質』を大切にするべきなのかという話し合いを何度かしたのを覚えています。
ひたすらに稽古をして、ある程度のパターンや技を体に教え込ませる方がいいんじゃないのかという「量」の考え方。
一つひとつの技を集中して、考えて、くりだすことで、理想に近い技の練習を少しでも多くしていくことで量をこなさなくても短時間で技の精度を上げようという「質」の考え方。
それぞれの方法を試しながら、僕たちは「質」の練習に重点を置きながら、「量」の練習もしていくという方法を選びました。
今、思えば他にもいろいろな稽古の方法はあったと思います。力不足で、稽古不足だったということもあるんだと思います。まだまだ考えの甘い高校生が考える程度のことだったのかもしれません。
ですが、ふとその頃を思い出した時に、「いまの自分は毎日の生活の中での"質"を大切にしているのだろうか」と思ったんです。
毎日の生活を丁寧に集中して、地道にこつこつとやっていたのかなと。やっているつもりでした。でも、それは思い過ごしだったのかもしれないと思うことがあったからこそ、剣道をしていたあの頃を思い出したのではないでしょうか。
こうやって文章にしたり、口にするのは簡単なんですよね。でも、自分への意識づけの強い意味を込めて、ここに残しておきます。毎回こんな感じですが、何度も何度もこの繰り返しです。
高校の時には剣道を専門的に教えてくれる顧問の先生はいませんでした(外部のコーチはおられましたが、僕たちが高校2年の時に亡くなられました)。
ですので、優秀なキャプテンを中心に練習メニューや大会までの練習計画などは自分たちで考え、お互いに指導し合いながら毎日稽古をしていました。
その中で、稽古をするにあたり『量』を大切にするべきなのか、それとも『質』を大切にするべきなのかという話し合いを何度かしたのを覚えています。
ひたすらに稽古をして、ある程度のパターンや技を体に教え込ませる方がいいんじゃないのかという「量」の考え方。
一つひとつの技を集中して、考えて、くりだすことで、理想に近い技の練習を少しでも多くしていくことで量をこなさなくても短時間で技の精度を上げようという「質」の考え方。
それぞれの方法を試しながら、僕たちは「質」の練習に重点を置きながら、「量」の練習もしていくという方法を選びました。
今、思えば他にもいろいろな稽古の方法はあったと思います。力不足で、稽古不足だったということもあるんだと思います。まだまだ考えの甘い高校生が考える程度のことだったのかもしれません。
ですが、ふとその頃を思い出した時に、「いまの自分は毎日の生活の中での"質"を大切にしているのだろうか」と思ったんです。
毎日の生活を丁寧に集中して、地道にこつこつとやっていたのかなと。やっているつもりでした。でも、それは思い過ごしだったのかもしれないと思うことがあったからこそ、剣道をしていたあの頃を思い出したのではないでしょうか。
こうやって文章にしたり、口にするのは簡単なんですよね。でも、自分への意識づけの強い意味を込めて、ここに残しておきます。毎回こんな感じですが、何度も何度もこの繰り返しです。
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