2011年12月24日土曜日

科学 カガク かがく

この4月から保育所で「かがくの じかん」というものに取り組んでいます。「かがく」といっても堅苦しいものではなく、簡単な実験を子どもたちと経験していくという感じで行っています。

科学と言われるとどうしても小難しいことを想像してしまうかもしれませんが、科学は僕たちの生活の中に自然と存在しているものだと思っています。「8歳までに経験しておきたい科学」という本にこんな言葉があります。「世界をわかろうとする人間の内的な欲求は組織化され、情報を集め、テストし、共有するためのきちんとした方法へと発展しました。そして、それは科学と呼ばれるようになりました」
こう考えると僕たちの周りにはそんな内的な欲求を発展させてきたもので溢れていることがよく分かります。実際に「科学(science)」という語は、ラテン語の「scire」を語源としています。「scire」とは「知ること」という意味です。
その本には続いてこう書かれてあります。「私たちが子どもたちに興味のある科学体験をさせるとき、知るという人間の自然な能力を育んでいることになります」



科学的な体験を通して、子どもたちは「不思議!!」という感情を抱きます。そして、その不思議はもっと知りたいという感情につながっていくんだと思っています。
知るということを支えてくれる感情に「好奇心」や「探究心」というものがあります。好奇心は「何かを学びたいと思ったり、知りたいと思う欲求のこと」と定義されています。つまりこの好奇心や探究心を育てるということは学ぶ力を育てるということになります。その学びの方向は子どもたちにの数だけあり、子どもたちが興味を持っていくことなのでしょうが、その基礎となる部分をしっかり支えていきたいなと思っています。


今後これらが発展していった先に「論理的思考」や「自己効力感や問題解決能力」というものがあります。論理的思考というのは「思いやり」につながると考えています。それは例えば、「〇〇ちゃんはこういう嫌なことがあったから泣いているんだ、だからきっと悲しいはず」というように相手の今の気持ちを察するということでもあると思うんです。


今やっている「かがくの じかん」では必要以上に論理性を求めようとは思っていません。実験を通して、子どもたちが「不思議だな!!」と感じ、「もっと知りたいな!」という好奇心の芽が育つように、感じること、体験することを大切にしていきたいと思っています。

なんだかごちゃごちゃしてしまいました。
伝わったかな.....伝わらないということはまだちゃんと理解できてないんだろうな。

2011年12月18日日曜日

会話

僕達は芸人さんではないので、誰かと話をする時にそれほど「面白い話」をしようと意識はしないと思います。
でも、少しニュアンスを変えてみたり、話の組み立てを変えてみたりして、相手に伝わるようにと、面白おかしく話を組み立てることはよくあるのではないでしょうか。



それはただ「面白い人」になりたいということではなく、自分の話を聞いてくれる相手への敬意にも似てる気がするんです。
自分の話を退屈そうに聞かす訳にはいかないから面白い話をしてみようとか。自分の話ばかりしなように気をつけようとか。




会話って自己満足で終わってはいけないものなのかなと最近よく思います。
相手がいて成り立つものなので特にそうなんだろうと思います。だから、逆に自己中心的な人はどうしてもその性格が会話にでてしまうのではないでしょうか。
相手を気にせずに会話をするというように。




それは会話ではないのかもしれませんね。会話は相手を思いやる一つの形でもあるんだと思います。
ということは性格が変われば会話も変わるのかもしれません。
いや、むしろ会話から性格を変えるということもできるのかも。

自分自身も明日からその辺りを意識して人と関わらないと訳なんです。

2011年12月11日日曜日

あの頃の僕

僕はとても楽しくて、バカバカしい少年期を過ごしてきたと思っています。

小学生の時にはとにかく毎日、誰かを笑わすことしか考えていませんでした。お風呂の中で明日はこんな風に笑いをとろうとよく考えていたものです。
学習発表会に向けての全体練習の場では毎回セリフにアレンジを加えて、その場のみんなから笑いをとろうと必死でした。

授業中も同じで、先生の揚げ足をとってばかりいました。これは今もかもしれませんが、長期休み(夏休み、冬休み、春休みなど)明けの初日にはみんなに会えた喜びと、久々にみんなを笑わせたいという思いで喋りまくり、毎回必ず、喉を痛めていました。

それに加え、無謀なことも考えるようになってきました。中学1年の時には剣道部に所属していながら、野球に目覚め、専門書を読んでは自宅倉庫で一人練習をしていました。時には弟(野球部)を相手に投げ込みの練習もして、フォームの確認、コントロール、変化球や直球に磨きをかけていました。その頃は本当にプロ野球選手を目指していたんです 笑

体育大会や地区の陸上競技大会で陸上部に勝つために古武術で有名な甲野善紀さんが陸上選手に指導したなんば走り(右手と右足、左手と左足を同時に出す)を習得するために学校からの帰り道を変な歩き方で帰ったりしていました。

どの挑戦も無謀で、まったく見通しのないものでした。アホです。

そんなアホなことの集合体が僕なんです  笑


2011年12月2日金曜日

想像し、拾い上げ、大切にする

夢ってみんながそれなりに持っているものですよね。マイホームを建てたいとか、素敵な人と結婚したいとか、BMWに乗りたいとか。多くの人がそんな夢を持って日々生活している。


時間という軸で考えるとみんな(当然、僕も含めてです)が持っている「夢」って「未来」という所に位置するものがほとんどじゃないかなと思うんです。つまり、「将来こうなりたい」とか「いずれはこんな物を手に入れたい」とか。そんな未来のことを想像しながら努力したり、行動したり、楽しんだりすることが夢の意味だったり、夢を実現する方法だったりする気がします。


そんなことを考えた時に夢って「欲望のかたまり」だな〜なんてなことを考えちゃったんです。もちろん、それが悪いなんてことは思いません。人はそんな風に欲望をうまくコントロールすることで人生を楽しんだりできると思うので(なんだかさらっと言っちゃってますが、このあたの考えはまだ猛烈に薄いですよ 笑)それを否定している訳ではありません。



でも、その「欲望のかたまり」の先にある夢も大切なんですが、時間軸でいうところの「現在」という位置にある「夢」の存在をもう少し意識できると人ってもっと幸せになれるんじゃないかなと思うんです。



例えば、昔から車を運転することが夢だった人がいるとします。免許取りたての頃はそんな夢が叶って嬉しくて仕方がない。でも、だんだん日が経つにつれて、車を運転するということが日常になるとそれは、もはやあまり魅力を持たないものになってしまう。
夫婦関係だってそうなのかもしれません。実際、僕は結婚していないのでなんとも言えないのですが、結婚する前はお互いにこの人と結婚するのが「夢」なんてことを思い描いていた人が多いはずです。
そして夢の結婚をむかえる。幸せな日々が続きます。夢が叶うということは幸せなことのはずです。でも、それも日常化してくると幸せだと感じなくなる。


日常化する、習慣化する、慣れるということって人間の素晴らしい能力の一つだと思うんです。でも、もう少し、その日常にある「幸せ」というものを想像してみてもいいんじゃないのかなと自分自身を振り返って思えてきたんです。

結構、僕の周りにも「叶った夢」という幸せが転がっています。

その一つひとつをもう少し丁寧に拾い上げて大切にしてみようと思います。