吃音を持っていることで、周りからいじめられたり、からかわれたりし、たくさん泣いて、たくさん悩んできたことが記事には書いてありました。
また、ヒカル君は小学校に入学してから言語訓練に通い始めたそうです。
ですが、ある日「訓練」という言葉を辞書で引いた時に訓練の意味(あることを教え、継続的に練習させ、体得させること)に違和感を覚えたそうです。ヒカル君は練習などで吃音を治そうとするのは今の自分を否定されているような気がすると感じ、担当の先生と相談して言語訓練を「ことばの教室」と呼ぶことにしたそうです。
記事の中では、辛い経験をしても、吃音をもつ自分を受け入れようとしてきたヒカル君がいました。
最後にヒカル君は「今はある程度、自分の吃音と向き合い、受け入れられていると思う」と語っています。受け入れるってどういうこと?と問われると、「自分を好きになることかな」とこたえています。
時を同じくして、「早期教育と脳 」、
私は障害児・者の問題は、彼ら個人の問題ではなく、むしろ周囲にいる私達いわゆる健常者の問題であることを確信したのです。ハンデのある物が努力して変わるより、そうでない健常者が受け入れることの方が容易で安全かもしれません】という文章がありました。
様々な障害を持ち、生活をされている方はたくさんおられます。障害を持った人たちに訓練や治療することで日常生活を送りやすく・・・というような言葉をよく耳にします。障害を持つ人たちが訓練しなければ日常生活が送れないということそのものが何か違うんじゃないんかなとも思っています。小西さんが言われるようにそれよりもまず、障害を持つ人の周りの人間である我々が考え方を変えるべきという言葉にとても納得しました。こんなことを言っている僕も何だか線を引いているようで嫌なのですが。
社会に出るために障害を治す、訓練するという考え方よりも、それを自分自身が受け入れる。社会が受け入れるような方向へ進んでいけばいいなと思いながら読ませていただきました。
ヒカル君の記事や小西さんの本から、まずは自分が持っている障害というものをより、考えるきっかけになりました。一人の人間として、また周囲の人間として、考えることがたくさんありそうです。
まだまだ、何もわかっていません。
(最近ではその子なりの特性、個性ということを考えずに安易に障害という診断をされる子どもが増えていることも小西さんは指摘させておられます。なんだかある枠の中にいればいい子なんだという考え方があるような気がしてなりません。その子、その子をしっかり見守っていくことを忘れてはいけないと思っています。)
繰り返しますが僕はまだまだ何も分かっていません。だからこそ、分かろうとすることを止めたくありません。意識することをつい忘れてしまいそうになる日常を大切に考えて過ごしていきたいと思います。
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