2012年10月27日土曜日

ねはふかし

ここ1、2ヶ月ぐらい、は今までにないくらいの悩みの中にいます(ん〜でも、悩みのスタートを考えると、ここ1年以上はその中にいますね)。抜けれそう!と思うと、いやいや、まだまだトンネルは続いていたりして.....といった感じです。あまりにも長い迷いの中なので、ちょっと心配になったりもするんですが、今までの自分と向き合う時間なのかなと思ったりもしています。



やっぱり悩みや迷いの中にいるので、どうしたって楽しくはありません。時折、なんにもできないくらい動けなくなり、落ち込んでしまうこともあります。



でも、どこかで「それを楽しんじゃえよ」と言っている自分、思おうとしている自分がいて、なんとなく少しずつそう思えるようになってきてはいるんです。



いつ抜け出せるかは分かりません、でも間違いないのは自分自身の力で抜け出るしかないんだということです。だから、きっとまだまだかかる作業なんだと思います。
はい、「作業」だと思っています。
丁寧に丁寧に紡いでいく作業なんだと思います。


そんな作業をなるべく楽しいと思えるようにやっていくしかないんだな〜






2012年10月26日金曜日

くぅ~

CSシリーズを制し、リーグ優勝を果たしたジャイアンツですが、10月7日に行われたリーグ最終戦で、ちょっといい話があったんです。

その日の試合前まで、ジャイアンツを支える坂本選手が170安打、長野選手が173安打という状況で最多安打賞を争っていました。

坂本選手は7回までに3安打を放ち、それまで無安打だった長野選手と173安打で並びました。そして、長野選手の打席が回ってきました。ここで、長野選手がヒットを打てば174安打で坂本選手を抜き、トップに立ちます。

しかし、長野選手が打席に立つ前に長野選手の気持ちを察した原監督が「この打席、どうしたいかは君にまかせるよ」と声をかけたそうです。

その言葉で長野選手は「僕は引っ込みます」と言って、打席に立たないという選択をしました。そして、ベンチに帰り、塁上にいる坂本選手に「一緒に最多安打のタイトルがとれたな!」という意味を込めて、ガッツポーズをしたんだとか。その姿に坂本選手は涙を浮かべていたそうです。

しかも、長野選手はこの試合2打席立っていますが、追いつこうとしている坂本選手のために安打は打てないと、しかしチームには貢献すべきだということで、必死に四球を狙っていたというんです。

原監督はこれを「ジャイアンツ愛」と呼びました。そして、坂本、長野選手は2人で最多安打のタイトルをとることになりました。


僕はこの話を聞いた時に、なにより原監督のすごさを感じました。選手の気持ちを察し、長野選手にどうしたいかを確認した姿、そして、なによりこの2人の関係を生んでいるのは原監督が作り出したチームの雰囲気じゃないかなと思ったんです。


それが今のジャイアンツなんじゃないかと。ただ、戦うだけの集団じゃないような気さえします。
まあこちらの一方的な想像なのですが、なんだかそう思ったんです。

良い指揮官、良いリーダーがいるからこそ、そのチーム、集団は良い雰囲気になっていくんでしょうね。分かりませんが、そんなことを思ったのでした。

2012年10月17日水曜日

エネルギー切れ

10月に入り、気温も下がり、走りやすい気候になってきました。ということで、先日、ゆっくりと長い距離を走ってみました。

まずは10月6日に20㎞のランニング。1㎞7分台というゆっくりとしたペースで走ることを目標に、久々の20㎞ランに挑戦。ゆっくり走ったので、筋肉への負担はほとんどありませんでした。

しかし、水分補強を一切せずに走ったので、途中で口の中がパサパサになり、脱水のような感じになってしまいました。

次の長距離走は10月13日に25㎞。こちらも1㎞7分台で走りました。前回の20㎞ランでの水分補強の反省を活かし、今回は250円をポケットにしのばせてのランニングでした。

12㎞ほど走った地点でポカリスエットを購入。残金は100余円。ポカリスエットを飲み終わり、1㎞ほど走った所で......「なんだか、今日は違う!!」という感覚が。身体が重たくて(あ、いつも重たいですが〜)、足が前に進んでいかないのです。
「なんだろう?このエネルギーが切れたような感覚は.....」と考えていて、思い当たりました。朝から何も口にせずに走っていたのです。そのためか、もう電池切れみたいな感覚に。

ポケットには100余円しかない......迷ったのですが、ここで食べ物を買っても喉を潤すものが買えない!!と思い、18㎞走った所でお茶を購入することに。

もうほとんどエネルギー切れの状態なので、すり足のようにして、なんとか25㎞を走ることができました。


え〜普通の人ならこんな状況にはならないですよねw
なんだか分かりませんが「まあ水分補給しなくても大丈夫でしょ!」とか「ご飯食べてないけど、大丈夫、大丈夫!」となんとも甘い考えで走っていたんですよね。
僕はこうやって経験していかないとダメなんでしょうね......でも、水分補強とランニング前のエネルギーの補給は大切なんだぞ!と身をもって体験いたしましたぞ!!自慢になりませんねw

2012年10月10日水曜日

〜のような。


「夢は大きく持った方がいい」や「人生一度きりなんだから挑戦しないと」とか「自分の人生、好きなように生きなきゃ」という言葉をよく聞きます。
僕もちょっと前まではこの言葉を「きっと、そうなんだろう!」と思って、けっこう前に出していたように思います。



でも、なんだか最近、この言葉が自分の中で変化してきたんです。ちょっと違う解釈をしていたんじゃないかなと思うようになりました。
それに「夢は大きく~」とか「人生一度きり~」という言葉にとらわれすぎていたんじゃないかとも思ったんです。

言葉を先に据えてしまうと「人生一度きりなんだから、何かしないといけない!なにかしてやろう!」というどうも、しっくりこない考え方になってしまったりするような。



それって、何だか未来とか先しか見ていない考え方なんじゃないかと。あとは周りの人とか。「周りもこんなことをやっているから俺も」、「将来はこうなりたいんだ」に疲れちゃうことってある気がします。


そうじゃなくて、とにかく「今、ここ」に向き合って、与えられたことを一生懸命やっているうちに何かやりたいことが出てきて、そのタイミングを逃さずに行動することが本当の意味の挑戦とかになってくるような、その方が気持ちいいような。


「今、ここ」に向き合って、誰と比較することなく、自分のペースを見つけていけたら、なんだか少しいろいろなことに対して、どっしり向き合えるんじゃないかと。それに、自分の夢に向ってもいいけど、誰かのことを思って、気遣って動いている人もかなりカッコいいですよね。 バランスなんですかね?

と、そんな感じの自分の中でこんな解釈に変わってきている気がします。


2012年9月14日金曜日

からだ

所ジョージさんの言葉や行動は時に強引なこともあるのですが(でも、一切他人には迷惑
をかけていないんです)、納得してしまう言葉も多く、僕の中では魅力的な存在です。

そんな所さんの言葉で「面倒くさいことが幸せなんだから」というものがあります。
最初はなんのことだかよく分かりませんでした。
今も「これだ!」という理解はしていないのですが、なんとなく、以前よりは「こんな感じのこと?」と思えるようになってきました。


そんな所さんの言葉と最近読み終えた【脳には妙なクセがある/池谷裕二】という本の内容が自分の中でリンクしました。


『ヒトの脳は身体の省略という美味しい芸当を覚えたがゆえに、身体性を軽視しがちです。身体を動かさずに、頭の中だけで済ませた方が楽なのはよく理解できます。しかし、脳は、元来は身体とともに機能するように生まれたものです。手で書く、声に出して読む、オモチャで遊ぶ.......活き活きとした実体験が、その後の脳の実体験に強い影響を与えるだろうことを、私は日々の脳研究を通じて直感しています』

『精神と身体は切り離して考えることはできません。心は脳にあるのではありません。心は身体や環境に散在するのです』


身体を使うということは面倒なことだと思います。動くというのは面倒なことなのかもしれません。それなりに筋肉を使います。神経も使います。そうすると疲れてしまいます。現代はその面倒くささをなんとか最小限に抑えて快適に生活しようとしてきたんだろうと思います。だからこそ、この身体を使うということが重要になってくるのかもしれません(この辺りは養老先生の話とかなりリンクするように思います)。

最後にネズミを用いたとある実験を紹介しています。
実験者がネズミのヒゲにモノを接触させた時のニューロンの反応と、ネズミが自らヒゲを動かして、モノに触れたときのニューロンの反応を比較した実験です。

ネズミ自らヒゲを動かした場合、そうでない場合と比べてニューロンの活動が10倍も強く活動したそうなんです。
ネズミが自ら身体運動をすることで脳はどんどん活動した.......なんだかとってもつながりそうなお話ですね。




2012年9月8日土曜日

こちら側からあちら側へ

「なんとかここまでできるようにしてあげよう」
「こうなれるようにしてあげよう」
というような言葉や姿勢?やり方に違和感を覚えることがあります。


「こうなってほしいと思う側」がいて、その「こうなってほしいと思う側」はなんとかその対象を「こうしよう」としている感じがするんです。
もちろん、そこに悪気なんてないんだと思います。


「こうなってほしい」にはどこか結果が即効的に求められるような気がします。
運動における技術の向上とかだとなんとなく受け入れやすいのですが、
例えばそれが人に向いた時に、やっぱり違和感を覚えるんです。


「こうなってほしいと思う側」の思いが強過ぎてしまうと「強引」になってしまうこともあるのかな。強引な姿勢は相手が人だった場合にはいろいろと問題も起きそうな気がします。
なんでしょう.....相手の気持ちを置いていっちゃている感じなのかな?


「こうなってほしい」の軸は「こうなってほしいと思う側」にあるんですかね?
もちろん「こうなってほしい」と思うことは大切なことで、考えていかなければいけないことだと思います。


それが、「こうなってほしいと思う側」に軸があるより、
「こうなってほしいと思う対象」に軸がある方が、その対象に寄り添っていけるのかなと思ったり。強引な感じにならないのかなと思ったり。


分かってなんていません。だから迷ってるんですよね。

気がつけば強引になっているのかもしれないし、迷って動けないこともあるし。
まだ、考えているだけです。動きには表れていないと思います。
無能さに気がつく毎日です。












2012年9月4日火曜日

しつ

僕は学生時代、剣道をしていました。中学校から始めて、高校までの6年間です。
高校の時には剣道を専門的に教えてくれる顧問の先生はいませんでした(外部のコーチはおられましたが、僕たちが高校2年の時に亡くなられました)。

ですので、優秀なキャプテンを中心に練習メニューや大会までの練習計画などは自分たちで考え、お互いに指導し合いながら毎日稽古をしていました。


その中で、稽古をするにあたり『量』を大切にするべきなのか、それとも『質』を大切にするべきなのかという話し合いを何度かしたのを覚えています。

ひたすらに稽古をして、ある程度のパターンや技を体に教え込ませる方がいいんじゃないのかという「量」の考え方。

一つひとつの技を集中して、考えて、くりだすことで、理想に近い技の練習を少しでも多くしていくことで量をこなさなくても短時間で技の精度を上げようという「質」の考え方。

それぞれの方法を試しながら、僕たちは「質」の練習に重点を置きながら、「量」の練習もしていくという方法を選びました。

今、思えば他にもいろいろな稽古の方法はあったと思います。力不足で、稽古不足だったということもあるんだと思います。まだまだ考えの甘い高校生が考える程度のことだったのかもしれません。

ですが、ふとその頃を思い出した時に、「いまの自分は毎日の生活の中での"質"を大切にしているのだろうか」と思ったんです。

毎日の生活を丁寧に集中して、地道にこつこつとやっていたのかなと。やっているつもりでした。でも、それは思い過ごしだったのかもしれないと思うことがあったからこそ、剣道をしていたあの頃を思い出したのではないでしょうか。

こうやって文章にしたり、口にするのは簡単なんですよね。でも、自分への意識づけの強い意味を込めて、ここに残しておきます。毎回こんな感じですが、何度も何度もこの繰り返しです。