2012年7月29日日曜日

知らないんじゃなくて.....

「知らぬが仏」なんて言葉がありますよね。英語でも知らぬが仏とほとんど同じ意味の

ignorance is bliss(無知は至福である)」という言葉もあるそうです。

知らないでもいいことってあるんだと思います。それは人それぞれにあって、人によってその知らないでいいことは違うはずです。で、それはもっと言うと「今、自分は知らない方がいい」みたいなことになってくることもあって、自分の気持ち次第では知ってもいいんだけど、今はその気持ちではないんだということにもなる。知らない方が知るよりも明らかに自分のためになるんだったら、知らない方がいいに決まってます。でも、気になりますよね。でも、無理してでも知らない方がいいんです。だから、知らないでおこうと決めました。はい、ちょっと無理してでも。

2012年7月22日日曜日

語彙・読解力検定

6月に受けた語彙・読解力検定2級に合格していました。
ほっとしました。結果を見てみると、やはり読解力の部分が得意ということでした。
本を読むことは好きですし、これからもいろいろな本を読んでいきたいので、そのうち準1級を受けようかなと思います。そのうちですが。


2012年7月15日日曜日

太宰府の

福岡県太宰府市にあるスターバックスコーヒーへ行ってきました。「必ずここに行く」という思いを昨年、この店舗が完成した時から思っていましたが、意外と早くにその思いを実現することができました。



ここは「負ける建築」で有名な建築家の隈研吾さんの設計事務所(隈研吾都市設計事務所)が設計を手がけたものです。見た瞬間に「おお!」と声が出てしまいそうな独創的な建築ですよね。二千本にも及ぶ木を組み合わせて作られた空間には本当に圧倒させられました。

僕なんか建築のことは全く分かりませんが、以前何かの番組で隈研吾さんが出ておられるのものを見て、惹き付けられてしまいました。

隈さんの「負ける建築(本も出版されています)」とはまず、都会にある高層ビルや郊外の一戸建てを「勝つ建築」と考えます。多額のローンを組んで購入する住宅や同じようなデザインの住宅は都市で生活している人の精神を圧迫するし、周囲の環境とはまったく合わないと考え、それらを勝つ建築とし、その反対である負ける建築は周囲、自然とよく馴染み、柔軟性のある建築と考えるそうです。
建築家個人の美意識や独創性を重視するのではなく、周辺の環境へ配慮した建築をされています(帝京大学小学校の建築もされておられます)。

今回の太宰府のスターバックスコーヒーも太宰府天満宮の表参道にある伝統的な建築物に溶け込むという目的があったそうです。
実際に、表参道を歩きながら店舗を探していたのですが、見つけた時に驚きました。確かに店舗のデザインそのものは「おお!すごい!」と驚くものなのですが、そこにあることに対しての違和感がないんです。自然に「とん」という感じで建っていました。

店舗の中も狭さを感じさせないんです。そして、なにより木のいい香りがしました。この匂いを嗅ぎながらのコーヒーを飲むという贅沢な時間を堪能させてもらいました。




2012年7月10日火曜日

泰平のネズミ

今、養老孟司さんの「逆さメガネ」という本を読んでいます。その中の一部を紹介します。




【以前、大学の研究室で、ネズミを飼っていました。生まれた時から水や餌をやって、それを切らさないようにしてあります。そういうネズミは、なにもしません。檻から出しても逃げもしません。時々その姿が今の若者と重なります。そういうネズミを長く飼っていると情が移って、実験に使えなくなる…しょうがないから飼い殺しになっちゃう。餌は十分だし、ネズミは太っちゃう。なにをしてるかというと、暑い日にはひっくり返って腹を出して、上向いてねてます。ただし、口の先だけは吸水管にくっつけている。いつでも水が飲めるようにしてある。泰平のネズミ、まさに今の日本人ですな…これがいったん檻の外に出て、数日経ったらどうなるか。たちまちふつうのネズミになります。もう捕まりませんよ。机の縁を、ヒゲで恐る恐る触りながら歩いていた、あのネズミとは思えません。環境しだいで、生き物なんて、それほど違ってくるんです。だから教育なんです】



この話、孟母三遷とか門前の小僧…とかにもつながるんだと思います。
人って、特に子どもなどは良い意味でも悪い意味でもその環境に染まってしまうんですよね。
気をつけないといけないなと改めて思いました。

2012年7月8日日曜日

気持ちよく生きていきたいんです

自己中心的。
「何事も自分を中心に考え、他人については考えが及ばないさまをいう。自分勝手。利己的。」
ということみたいです。
この自己中心性ってたぶんみんなが持っているものなんだろうと思います。
僕なんかも間違いなく、持っています。どちらかと言うとこの自己中心的な自分の登場回数は多い方だと思います。
ふっと気がつくと「あっ、今の行動とか言葉って自己中心的かも」なんてよく思ったりします。

自己中心的な説明の中に「他人に対して考えが及ばない」というものがあります。
ここなんですよね。誰かの気持ちを考えないから、自分の思いをただズドン!と言っちゃったりしてしまう。自分のそんな言動が相手を不快にさせてしまうんですよね。他人を思いやるとか他人を主体に考えることの大切さを最近すごく意識するんです。この気持ちの登場回数が少ない人ってどうしても自分のものさしで相手に対して接してしまうことが多くなるんじゃないでしょうか。もちろん、僕も含めてです。いや、これは自分自身の話です。
それは子どもに対しても。僕たち子どもに関わる大人はもっともっとこの部分を大切にしないといけないはずです。

自分のことしか考えてないような人と接すると「あ〜自分も気をつけないとな〜こんな姿、自分にもあるのかな?」と気をつけるきっかけにもなります。

それは自分にもそんなところがあるからです。そんな時に「なにをやっているんだ、おれは......」と自分自身に悲しくなります。


自分のことしか考えないって、本当に気持ちよくないことだと思います。そんなことはしてはいけないなと思ったんです。
だから気をつけるんです。
そうなんです。それだけです。

2012年6月28日木曜日

ずっと気になっていまして。

学生の頃、運動部に所属していた人なら「道具を大切にしなさい」とか「挨拶をしなさい」なんて言われたことがあるのではないでしょうか。僕はこの言葉があまり好きではないんです。
この言葉と一緒に必ずついてくるのが、「道具を大切にしない人間は野球は上達しない」とか「挨拶もできない人間はバレーなんかうまくならない」といったかなり強引な意味の言葉なんですよね。
小学生とか中学生の頃ってわりと素直じゃないですか。だから、大人が言ってくるこういう言葉を信じちゃうんですよね。
「よし、グローブを大切にしよう!そしたら野球がうまくなるぞ!!」、「挨拶をちゃんとしよう!そしたらバレーがうまくなるぞ!!」なんて思っちゃいますよ。



もちろん、道具を大切にすることや挨拶をすることは大切なことだと思います。でも、はっきり言って、道具を大切にしても野球はうまくなりませんし、挨拶をしたからってバレーは上達しないと思います。

で、何が言いたいのかと言いますと、ちゃんと本当の意味を伝えてあげてほしいということなんです。

道具を大切にしてるから野球がうまくなるんじゃなくて、道具を大切に扱う子は野球に対して真剣に真面目に取り組んでいる子なんです。だから野球が上達する。道具を大切にしているからではないと思うんです。だから「道具を大切にしてないな。野球に対してまだまだ真剣になっていないんだな」と指導者が感じたら、そのことを伝えてあげたり、真剣に取り組めるように野球の楽しさなんかを教えてあげるのがまず第一なんじゃないのかなと思うんです。「道具を大切にできない奴は野球はうまくならない」なんて半分脅しに聞こえます。
(よく、イチローさんが道具を大切にしている話をされますが、イチローさんなんかは野球に対して真剣に取り組んでいるから結果として道具を大切にしているんだと思います)



挨拶も「バレー部だから挨拶をしないといけない」とか「先生に言われているから」でするくらいならしない方がいいですよ。そうじゃなくて、「挨拶をするとされた相手は気持ち良くなるよね。練習試合に来た人に挨拶するとお互いに少し打ち解けて、一緒に練習を楽しもう!って気持ちになるよね。だから挨拶は大切だよね」みたいな感じで伝えてあげたほうが僕はいいな〜と思います。

やっていることは同じでも意味はかなり違ってくると思うんですよね。
僕は.......。






2012年6月25日月曜日

恐山

「恐山」という本を読みました。著者は青森県恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職の南直哉さんです。4年くらい前にyoutubeで南さんがお話をされている動画を見たのがきっかけでいろいろな本を読んだりしたいます。仏教ということではなく、自分の経験したことをとにかく考えて、自分なりの結論を出していかれるのでそのスタイルがすごいな〜と思ったり、お坊さんなんだけど、お坊さんらしくない感じがおもしろいな〜と思って本なんかを読ませてもらっています。

この本の中でも霊山としの恐山とはどういうものなのだろうか、ということが最初に書かれてあります。霊的なものがいる、いないということではなく恐山とは「魂の行方を決める場所、死者への想いを預ける場所」と書かれてあり.........



なんて、この本の内容をまとめようとしていましたが、やめました。まとまりません。無理でした。でも、読みながら、なんだかすっきりしていったんです。なのでこの本の中の文章を少しだけ紹介して終わります。


「死後の世界や霊魂のことは私には分かりません。しかし、死者がその存在を消滅させないことは知っています。死者は彼を想う人の、その想いの中に厳然と存在します。それは霊魂や幽霊どころではない、時には生きている人間よりリアルに存在するのです。ならば、その死者を想う自らの気持ちを美しいものとすることが、何よりの供養ではないでしょうか。今は悲しみと後悔の中であっても、いつの日か懐かしく優しい気持ちで、故人の一番幸福であった頃の姿を想い出せることが、私はとても大切なことだと思うわけです」




「生のリアリティの根本にあるのは他者との関係性です。他者との関係性が軽くなってしまえば、生きている人間の存在感も軽くなる。他者に強い思い入れもなければ、他者から得るものも当然少なくなってきます。それは死者とて同じこと。存在感が希薄になりつつある生者に、死者を想い出す余裕はありません。葬式に対する意識が薄くなるのも当然です」






誰かを思う気持ち、思いやる気持ちという他者に向けた思いというものがこれから、いやずっと今まで大切なことだったんでしょうが、どうしてもその気持ちが薄くなってきているのが今なのかもしれません。
これは子どもに関わる人は特に意識しておかなければいけないなと読みながら、この文章を書きながら強く思いました。