「恐山」という本を読みました。著者は青森県恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職の南直哉さんです。4年くらい前にyoutubeで南さんがお話をされている動画を見たのがきっかけでいろいろな本を読んだりしたいます。仏教ということではなく、自分の経験したことをとにかく考えて、自分なりの結論を出していかれるのでそのスタイルがすごいな〜と思ったり、お坊さんなんだけど、お坊さんらしくない感じがおもしろいな〜と思って本なんかを読ませてもらっています。
この本の中でも霊山としの恐山とはどういうものなのだろうか、ということが最初に書かれてあります。霊的なものがいる、いないということではなく恐山とは「魂の行方を決める場所、死者への想いを預ける場所」と書かれてあり.........
なんて、この本の内容をまとめようとしていましたが、やめました。まとまりません。無理でした。でも、読みながら、なんだかすっきりしていったんです。なのでこの本の中の文章を少しだけ紹介して終わります。
「死後の世界や霊魂のことは私には分かりません。しかし、死者がその存在を消滅させないことは知っています。死者は彼を想う人の、その想いの中に厳然と存在します。それは霊魂や幽霊どころではない、時には生きている人間よりリアルに存在するのです。ならば、その死者を想う自らの気持ちを美しいものとすることが、何よりの供養ではないでしょうか。今は悲しみと後悔の中であっても、いつの日か懐かしく優しい気持ちで、故人の一番幸福であった頃の姿を想い出せることが、私はとても大切なことだと思うわけです」
「生のリアリティの根本にあるのは他者との関係性です。他者との関係性が軽くなってしまえば、生きている人間の存在感も軽くなる。他者に強い思い入れもなければ、他者から得るものも当然少なくなってきます。それは死者とて同じこと。存在感が希薄になりつつある生者に、死者を想い出す余裕はありません。葬式に対する意識が薄くなるのも当然です」
誰かを思う気持ち、思いやる気持ちという他者に向けた思いというものがこれから、いやずっと今まで大切なことだったんでしょうが、どうしてもその気持ちが薄くなってきているのが今なのかもしれません。
これは子どもに関わる人は特に意識しておかなければいけないなと読みながら、この文章を書きながら強く思いました。
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