2015年3月29日日曜日

時代劇の人

子どもの頃、祖父と一緒によく時代劇を見ていました。
「暴れん坊将軍」「銭形平次」「水戸黄門」などは
オープニングの曲を聞くと、なんだか懐かしくなります。


「暴れん坊将軍」というと松平健さん演じる徳川吉宗ですね。
僕の中では「徳川吉宗」と聞くと、自然と=松平健さんになってしまっています。
徳川吉宗といえば享保の改革で、新田開発の推進、火事対策、
財政再編を行った人ということですが、どのあたりが「暴れん坊」なのでしょうか。
ちょっと調べてみると、吉宗は身長が180㎝を超えていて、
かなり力自慢だったようです。力士と闘って勝ってしまった話や、
突っ込んできた猪を打ちのめしたり、鷹狩りで逃げる鶴を追いかけて、
ジャンプして捕まえてしまった話もあるそうです。
本当かどうかは分かりませんが、「暴れん坊」とついても
おかしくないですね。また数字にも強かったらしく、そんなところが
財政再建にもつながったのかもしれませんね。


次に「銭形平次」ですが、これも好きな時代劇でした。
「男だったら〜」のあの歌をよく口ずさんでいたりもしました。
この銭形平次は架空の人物で、物語の作者の方が、
物語の構想を練っている時に、たまたま建設現場で見かけた錢高組の
看板と社章から銭形平次の名前と、あの銭を投げる形を思いついたそうです。
ちなみにあの投げている銭は寛永通宝というもので、
1636年の寛永13年に作られ、幕末まで作られていたそうです。
現在の値段だと、あの投げていた寛永通宝1枚は約20円ぐらいの
値段になるのだそうです。もっと高いのかなと思っていましたが、
そうでもないみたいですね。


最後に「鬼平犯科帳」の「長谷川平蔵」です。
この人は実在した人物なのだそうです。長谷川平蔵といえば
演じている中村吉右衛門さん(歌舞伎役者の方で、あの六甲のおいしい水のCMの人です)を思い浮かべますが、実在の平蔵は
青年期、なかなかのやんちゃもので周りからは恐れられていたそうです。
お父さんが貯めたお金も遊郭などに通うことで、使い果たしてしまったそうです。
その後、お馴染みの「火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)」に任命されます。
人情味のある仕事っぷりで、庶民からは人気があったそうです。
やんちゃものだった人なのに、不思議ですね。
火付盗賊改方は放火や盗賊、賭博を取り締まる役職とされています。
警察のような感じですね。
しかし、この火付盗賊改方は疑わしい人を容赦なく検挙することが
認められていたために、厳しい取り締まりによる誤認逮捕や冤罪も
多かったそうです。


その時代に生きたいとは思いませんが、人々がどのように暮らし、
どんな時代だったのか見てみたいなと思います。

2015年3月22日日曜日

花の名前

今の時期は気温も高くなり、晴れている日も増えてきて、
走っていて本当に気持ちがいいです。
季節は冬から春になったこともあり、至る所に
そんな春を感じることがあります。


生き物が出てきたり、道端には花も咲き始めています。
走っているとそんなきれいな花が目にとまるので、
立ち止まり、写真を撮ったりすることも多いです。


先日も走っている時に写真の花を見かけました。
周辺一帯にこの花が咲いていてなんともきれいでした。
僕は植物には全く詳しくないので、この花の名前が分からなかったので、
帰って調べてみました。調べてみたのはいいのですが、
なかなか見つからず、しばらく調べてやっとこれかな?
という名前にたどり着きました。
「オキザリス・バリアビリス」というものではないかと思うのですが、
聞いたことのない名前でした。
葉には丸みがあり、また細い毛があり、撥水性もあるため、
葉の上にのった水は球体になるそうです。試してみたくなりますね。


オキザリスは南アフリカ、中南米の熱帯〜亜熱帯原産の球根植物で、
属名のオキザリスはギリシャ語の「オクシス(酸っぱい)」という意味で、
葉にシュウ酸が含まれていることにちなんでいるそうです。
花言葉は「輝く心 母親の優しさ 喜び 決してあなたを捨てません
輝煌」となるそうです。


また、この時期に走っていると妙な匂いがすることがあります。
その匂いを嗅ぐと「あ、春がきたな(春によく嗅ぐ匂いだな)」
と思うのですが、その匂いはいい匂いではなく、
自然物ではないような、どこか人工的というか、機械的?というのか
とにかく妙な匂いを嗅ぐことがあります。


「一体この匂いはなんだろう?」と思っていたのですが、
先日その匂いの正体ではないかというものを見つけました。
外に出ている時に、あの妙な匂いが漂ってきて、
近くにあった花の咲いた木に目がいったので、
臭ってみると、あの匂いがしたんです。
「あ、これか!」とやっとその正体が分かって、なんとも
嬉しい気持ちになりました。と、同時に植物の匂い(自然物の匂い)だった
ことにも驚きました。
それがこれです。

こちらも何という植物か分からなかったので、調べてみました。
「ヒサカキ」という名前のようで、花は写真のように
白っぽいクリーム色で、壷状で、強い芳香を放つそうです。
その芳香は一般的な花とは異なり、都市ガスやたくあんに似た
独特の匂いとありました。僕が感じていた妙な匂いもこれだったんですね。


かつて探偵ナイトスクープでは「インスタントの塩ラーメンの粉末スープに
似ている」と特集されたそうです。
確かに似ているかもしれません。


自分の知らない世界が近くに広がっていると
思うと安心するというか、嬉しくなるような
そんな感覚があります。












2015年3月15日日曜日

俳句

ちょっと前に俳句についての話で盛り上がったことがあるのですが、
俳句についてよく分からないので、
ちょっと調べてみました。


俳句は俳諧連歌(俳諧)から生まれた近代文芸だそうです。
まず、連歌は和歌の五七五 七七を基盤とし、
複数の作者が連作する形式とされています。
そして、歴史的には和歌の上の句の五七五と下の句の七七を別な人が詠むという遊戯的な試みが連歌の起源とされているそうです。
その連歌の遊戯性、庶民性を高めた文芸が俳諧になるそうです。


17世紀にあの松尾芭蕉がその芸術性を高めるたとされています。
なかでも単独でも鑑賞に堪える自立性の高い発句(連歌の五七五の部分)を数多く詠んだことが俳句の源流とされています。
これをより個人の創作性を重視して俳句として成立させたのが正岡子規だそうです。
正岡子規は江戸末期の俳諧を月並み俳諧と批判し、
発句を俳句として自立させました。なかなか言う人なんですね。


正岡子規は写生を作句の根本に置き、自己の実感から生ずるものを見出そうとし、
それらの活動が俳句革新運動となっていきました。
正岡子規の死後は伝統的な季題や定型を守る立場と、
写生主義を徹底させ、自然観照(観照:主観を交えないで物事を冷静に観察し、意味を明らかにすること、また対象の美を直感的に感じ取ること)における個性的な実感を重んじる立場と勢力が二分していたそうです。
どの世界でもこのような考え方の相違による対立のようなものが生まれるんですね。
その後季題を用い、定型を重んじる保守的な俳句の形と、
季語無用論や主観的な叙情を重んじたり、俳句に人間探求の意識を込めるべきというような新興的な俳句の形が様々な生まれていったそうです。


俳句にもここまでくるのに様々な歴史があったのですね。
当たり前ですが、そこにはやはり人の思いがあるんだなと感じました。


俳句と言われると字余りと字足らずとか言って、
学生の時に授業で作った記憶があります。
実際に今も作ってみようとするとそれらしいのは誰でもできると
思うのですが、実際にはどんな約束があるのでしょうか。
俳句の特徴として、4つ挙げられるそうです。
・五七五の韻律で読まれる定型詩
・基本として季語をいれる
・一か所、必ず切れがある
・余韻を残す


俳句といえば季語という感じですが、
季語を絶対に入れなければいけないという派や
季語よりも、季感が大切だとする季感派(この季感は季節感ってことでもあるのですかね?)、無季でもいいとする無季派も存在し、様々な考え方があるそうです。


次に「切れ」ですが、
俳諧では、最初に読まれる発句は後に続ける句の動機となる必要があるとされ、
そのため発句には後の句に依存しない完結性が求められ、
それが切れになったようです。
現代の俳句で使われる切れ字には「かな、や、けり」があり、
俳句以前の連歌、俳諧の時代には「もなが」「し」「ぞ」「か」「よ」「せ」「れ」「つ」「ぬ」「へ」「ず」「いかに」「じ」「け」「らん」なども使われました。

例えば、松尾芭蕉だと、

「秋深き 隣は何を する人ぞ」

なんていうのは、「ぞ」で切っていますね。
また松尾芭蕉は切れ字のあるなしではなく、
切れは句の内容の問題であるとも言っているそうです。

「菊の香や 奈良には古き 仏たち(松尾芭蕉)」
というのはそれにあたるような俳句でもあるのですかね。


話がまとまりませんでしたが、調べてみるだけでも
いろいろ知らないことばかりで、おもしろかったです。
俳句、ちょっと作ってみたくなりますね。





2015年3月8日日曜日

フルーツグラノーラ

ちょっと前に「朝食革命グラノーラ」という記事を読みました。
その時には、「グラノーラ?なんだろうそれって?」という感じで、
全くピンときてなく、食べることなんてあるのかな?と記事を読みながら
思ったのですが、とりあえず、「朝食革命グラノーラ」と
メモをとっていました。


で、気が付いたら、僕、それを「おいしいな〜!」と言って
食べていました。「え?これがあの記事のやつ?」と気がついた
時にはちょっと驚きました。



フルーツグラノーラという種類のものを食べるのですが、
これはシリアルの商品名で、オーツ麦や玄米など穀物と糖類などを
混ぜ、焼き上げたグラノーラにドライフルーツをミックスしたもので、
食物繊維や鉄分、ビタミンなどの栄養素を豊富に含んでいるとのことです。


だいたい1食分50グラムにバナナ4本分の食物繊維が含まれており、
玄米の倍近い量になるそうです。また、鉄分はほうれん草の10倍含まれており、
手軽に栄養がとれると人気になっています。
袋を開けて、お皿にフルグラを入れて、牛乳をかけるだけなので、
確かにかなり手軽ですよね。忙しい人にとっては手軽に準備できて、
栄養もあって、美味しいとなれば、どんどん広がって、
「朝食革命」も起きてしまいそうです。


しかし、糖質もしっかり含まれているので、食べ過ぎは太ってしまうそうです。
おいしいですし、食べやすく、食物繊維も豊富となると
ついつい食べすぎてしまいそうになりますよね。
また、フルーツが含まれていますが、加熱処理されたフルーツには
酵素が含まれておらず、酵素の含まれていない果糖は砂糖と同じ
消化プロセスとなり、太りやすくなってしまうという意見もあるそうです。


また、1食分が約50gが推奨されていますが、
50gってちょっと少ないんですよね(僕だけかもしれません)。
そうなると、やっぱり50gプラスぐらい食べてしまって、
砂糖も入っていることから、朝からカロリー高めの食事になってしまいます。
これに、プラス牛乳も入れることになるので、
カロリーはもう少し高くなってしまいますね。


手軽に食べれて、美味しいものなので、
好きなのですが、やはり食べ過ぎはいけないなと
改めて思わされました。なんでもそうですね。





2015年3月1日日曜日

美術館

今年の初めに「ひろしま美術館」に行ってきました。
何度もこの美術館の前は通っていたのですが、中に入るのは初めてでした。
そして、美術館に行くのも本当に久々でした。


僕が訪れた日は「日本洋画 珠玉のコレクション」という期間中でした。
画家さんのことも絵のこともよく分からないのですが、
数々の日本洋画を見ている中で、「おお!」と
惹きつけられる作品がいくつかありました。
その一つに「熊谷守一」さんの作品がありました。


「瓜」というタイトルで、丸いお皿の上に大小の
4つの瓜らしき丸みをおびた物体が置かれているような、
立っているような格好で、描かれてありました。
ものすごくシンプルな絵で、その絵の前で、足が止まりました。


どうしてこんな絵を描かれたのだろうということが気になり、
そして、熊谷守一という人のことが気になりました。


熊谷守一さんは岐阜県に生まれ、幼い頃から絵が好きな少年だったそうです。
裕福な家の生まれだったのですが、芸術家気質で、貧しい生活を送っていたそうです。
42歳で結婚し、5人の子どもに恵まれるも、絵が描けずに、
貧しい生活は続いたそうです。
子煩悩ではあったそうですが、貧しい生活のため、
3人の子どもを失ってしまいます。
晩年は現在の豊島区に小さな家を建て、30年近く
ほとんど外出せずに15坪ほどの庭の自宅で虫や花を描いて暮らしたそうです。


また、芥川喜好さんという方が読売新聞日曜版「絵と人のものがたり」の中で、
熊谷さんのことをこう語っています。


『異母兄弟の多い複雑な家に生まれ、
大人のふるまいを見て育った熊谷は
「もう小さい時から大人のすることはいっさい信用できないと、
心に決めてしまったフシがあります。」
と言っていた。
「そのころから人を押しのけて前に出るのが大きらいでした。

人と比べて、それよりも前の方に出ようというのがイヤなのです。」
とも言っていた。』また、
『何年も題材をあたため自信をもって出品した作品が、門前払いをくった。
これから評価を固めようという時期に
田舎に帰ったのはそんな美術界への失望ゆえではないか、
という見方も最近はある。
そうした日々を通して、熊谷は自分の信ずべきものを見きわめ、
信ずるに足らぬものを遠ざけ、
心の通うものだけで生きるスタイルをおそらく築いていった』


晩年、自宅からほとんど出ることのなかった、熊谷さんは
夜に絵を描き、昼間はほとんどの時間を庭で過ごしたそうです。
花もあり、虫もいるそんな空間は現実とは違うまた別の世界
だったのかもしれません。
複雑な家庭で育ち、人や社会に対しても失望した熊谷さんの
気持ちはどのようなものだったのでしょうか。


ですが、そんな状況でも、庭という自然に別の世界を
感じることで、気持ちが安らいだのかもしれないなと勝手に想像してしまいました。
晩年、自宅からほとんど出なかったとありましたが、
きっと出れなかったというより、出なくてもよかった
のかもしれません。庭という世界が熊谷さんにとっての現実だったのかもしれません。
僕たちも道に咲く花、茂る緑、小さな生き物を見て、
気持ちが安らぐことがありますよね。
きっと、それは人間社会だけではない、もう一つ別の
世界の存在を感じるからなのかもしれませんね。




(ピカソの絵のポストカードと名画ぬり絵を買ってみました)