この一年は、いや今もなんですが、いろいろと思い悩むことが多い気がします。どうしても隣の芝生を眺めてしまうんですよね。そんなのを眺めてたってどうにもならないのに眺めてしまう。
頭では分かっているつもるでも、そう思うということは分かってないんでしょうね。
それは自分自身にももどかしさがあったり、力の無さを感じるということもあるのですが、それだけじゃないのも確かで。
そんなことを考える前にまずは自分を高めるということが一番大切なのは分かっているんですが、ついそれを忘れてしまうことがある。
そんなことの繰り返しです。
だったら、とことん葛藤して、とことん悩んでみようかなと。その中でできることは山ほどあるし、すべきことも山ほどある。現実に丁寧に向き合いながらも、どこかで「いいな〜」、「やっぱり、すごいな〜」と思っていようではないか。
だってすごいのは事実なんだし、でもそれだけで終わってはいけないんですよね。自分にもできることはあるわけだし、そこを見ないで自分がすべきことを丁寧にしていかないといけない。そのあたりはとても前向きです。けして消極的な訳ではないんです。そこから学ぶこともたくさんあるはずです。
なにが言いたいのかさっぱり分からないと思いますが、あまりそんな思いを断ち切らずに抱えていってみようかなと思ったんです。
伝わりませんよね笑
2012年3月6日火曜日
2012年2月25日土曜日
おもてなしクッキング
先日、保育所で「おもてなしクッキング」というものがありました。保育所では3〜5歳児までが年間を通してクッキングを行っています。
そのクッキングでは子ども一人ひとりの発達や興味に応じた活動になるように選択を取り入れたりと様々な工夫をしています。
その集大成として年長さんが毎年、この時期に昼食作りを自分たちで行い、他の子たちにふるまうという「おもてなしクッキング」という活動があります。
かなり簡単に説明してしまいましたが、その「おもてなしクッキング」の様子を年長の担任の先生に原稿にしてもらっていました。その内容がまさに子どもたちの思いが詰まった素敵な文章だったのでここで紹介させていただくことにします。
あっ、ちゃんとご本人にも許可はとってありますよ。
そのクッキングでは子ども一人ひとりの発達や興味に応じた活動になるように選択を取り入れたりと様々な工夫をしています。
その集大成として年長さんが毎年、この時期に昼食作りを自分たちで行い、他の子たちにふるまうという「おもてなしクッキング」という活動があります。
かなり簡単に説明してしまいましたが、その「おもてなしクッキング」の様子を年長の担任の先生に原稿にしてもらっていました。その内容がまさに子どもたちの思いが詰まった素敵な文章だったのでここで紹介させていただくことにします。
あっ、ちゃんとご本人にも許可はとってありますよ。
『おもてなしクッキングをしたよ!』~自発的活動から見えた子どもの姿~
【生きる力をつけよう!】
今回のクッキングは毎月取り組んできたクッキングの集大成。“火を使うこと”“包丁を使うこと”が上手になった年長さんが、その力を十分に発揮してみんなをもてなします。
【どんなふうにしようかな?】
大人が「こうしなさい!」と言うのではなく、子ども達自身がどんなふうにもてなすかを考えます。
「レストランみたいにしたい!」「いいね。チケットもいるよね?」「おもちゃ付きのごはんなんてどう?」など、話す子ども達の目はキラキラ。それはきっと“やらされてる”のではなく、子ども達自らが“やろう”としていたからでしょう。
【みんなにないしょで!】
準備開始のその時「みんなにばれんようにしよう!」の声。窓に目隠しカーテンをして“秘密の準備”は実行されました。ただクッキングをするのではなく、“みんなをあっと驚かせたい”“もっともっと喜ばせたい”という子ども達の思いがとても伝わってきました。
【みんながよろこんでくれてうれしい!】
「みんな喜んでくれるかなぁ?」と、おにぎりとお味噌汁を作ります。そして、開店。一人ひとりの子がお客さんにはりきって昼食をふるまいます。最後、子ども達がみんなに言った言葉は「今日は来てくれてありがとう!」でした。
みんなが「おいしいよ!」と喜んで食べてくれたことが嬉しかったという思いだけでなく、自分達の思いを受け止めて喜んでくれたみんなへの“ありがとう”の気持ち、まさにおもてなしの心を感じた瞬間でした。
子ども達は自発的な活動の中から、こうして大切なことを学んでいくんだなと実感したおもてなしクッキングでした。
当日、子どもたちの姿は本当にイキイキしていました。みんなが誰かのために考え、誰かのために行動していました。場の雰囲気もとても良かったんです。年長さんの頑張りに対してを言葉はもちろんですが、みんなの空気が「ありがとう」と言っているようでした。大人も子どももここから楽しんで、感謝した会でした。
誰かのことを思いながら、考え、行動するってとても大切なことだと思います。それが集団で過ごしている意味でもあり、大切なことのひとつだと感じます。
素敵な会でした。みんな、ありがとう。
2012年2月20日月曜日
名越セミナー
直接、お話をした訳ではないんですが、名越先生が出す雰囲気をすごく感じました。これってやっぱり実際に会ってみないと分からないものだと思うんです。そして、その雰囲気がいいんですよね。人として魅力的だし、信用のできる人っていう雰囲気、匂いがでているんです。
それを感じれただけでも意味のある時間でした。
セミナーの内容も名越先生がかいつまんで話をしますと言われた通りに進んでいきましたが、それでもおもしろかった。ご自身で今までで一番、言いたい事が詰まっていますと話していた最新刊を読まずにはいられなくなる話の内容でした(早速、注文しました)。
前半はうつ病についてのお話でした。うつ病の人は常に妄想をしているということ。これ、自動思考とも言うらしいのですが、常にネガティブな妄想を膨らまし続けている、だから不登校の子も実は布団の中で登校しているんだということになるんです。
「あぁ〜今頃大嫌いな数学の授業か...」なんてな感じで布団の中でも妄想している。そうやってムダな事を考えてどんどんエネルギーを消費していっている。この感覚、なにもうつ病の人だけではなく、僕らにも当てはまりますよね。
この感情って怒りにも通じるんだそうです。「授業なんてなくなればいいのに、学校なんてなくなってしまえ」確かに、怒りの感情ですよね。他にも軽蔑なんかも怒りの一つだし、ちょっとした「イラッ」とか「ムッ!」という感情も同然怒りだと。
そうなると僕たちは毎日そんな怒りの感情を抱いて、どんどんエネルギーを消費していることになりますよね。
怒りというエネルギーはネガティブな感情しか生みませんよね。その怒りの感情を上手くコントロールする術も少し教えていただきました。
まだまだ、ここでは書ききれませんが、とてもおもしろ話の連続でした。これから届く本を読んだ時に今回のセミナーの時の話とどのようにリンクしていくのか楽しみです。
そしてセミナー後にはおいしいパン屋さんでお腹も満たしました。
2012年2月11日土曜日
くにびきマラソン
出雲で行われたくにびきマラソンに職場の上司、先輩とともに参加してきました。
僕以外の2人は制限時間である2時間をきる好タイムで見事完走されました。
僕は制限時間はクリア出来ずに「2時間26分54秒」という結果でした。15㎞地点まではいいペースだったのですが、そこから失速してしまい、ほとんど歩いてのゴールとなってしまいました。制限時間を超えると後ろから車がやってきて、時間を計測しているタグを回収されるんです。そして、沿道のスタッフさん達も足早に立ち去りだすんです。そんな中をゴールに向う景色は猛烈な寂しさをおびているんですよね。
しかし、後悔はしていません。自分なりに持てる力は出し切ったと思っています。とてもいい時間でした。数ヶ月前には想像もしていなかった舞台です。
それと職場の方達が応援に駆けつけてくれました。本当に嬉しかった。危うく涙腺が崩壊しそうになりました。僕がゴールするのが遅かったために出会えなかった人もいましたが、気持ちは受け取りました。ありがとうございました。
僕以外の2人は制限時間である2時間をきる好タイムで見事完走されました。
僕は制限時間はクリア出来ずに「2時間26分54秒」という結果でした。15㎞地点まではいいペースだったのですが、そこから失速してしまい、ほとんど歩いてのゴールとなってしまいました。制限時間を超えると後ろから車がやってきて、時間を計測しているタグを回収されるんです。そして、沿道のスタッフさん達も足早に立ち去りだすんです。そんな中をゴールに向う景色は猛烈な寂しさをおびているんですよね。
しかし、後悔はしていません。自分なりに持てる力は出し切ったと思っています。とてもいい時間でした。数ヶ月前には想像もしていなかった舞台です。
それと職場の方達が応援に駆けつけてくれました。本当に嬉しかった。危うく涙腺が崩壊しそうになりました。僕がゴールするのが遅かったために出会えなかった人もいましたが、気持ちは受け取りました。ありがとうございました。
2012年2月9日木曜日
集団って
最初に言わせてください。今回は、いや今回も?裏付けのない、無責任な思いつきを綴っていこうと思いますので、ご了承ください。
この間、二人で散歩をしているおばあちゃん達を見て、「集団」というものについて考えました。
そのおばあちゃん達のやりとりを聞いた訳ではないのですが、少ない経験上、おばあちゃんが二人いると大抵は一人が気の強いぐいぐい人を引っぱるようなおばあちゃんで、もう一人はそのおばあちゃんの言うことを横で優しく頷きながら聞いているような優しそうなおばあちゃんじゃないのかなと思うんです。
これ、別におばあちゃんだけに当てはまることではないと思っています。その傾向の強弱はあるにしても、だいたい仲の良い二人組とかってこんな感じの関係だったりしませんか?
もちろん、全てではありませんが。
引き続いておばあちゃんを例えにだしますが、優しそうなおばあちゃんも違うおばあちゃんとペアになると立場が逆転することもあるんだろうと思います。
僕たちだって、全ての人に同じ対応をしているわけではありませんよね。会社での自分、恋人といる時の自分、家族といる時にの自分、友達といる時の自分って同じではないと思うんです。
それぞれの関係の中にあった自分に変化しているはずです。だからどんな人間で集団を作ったとしても、誰かが全体を引っぱっていくんだろうし、誰かが何も言わないような黙っている人にもなる(それがいけないという訳ではありませんよ)。
じゃ、黙って物静かな人ばかりを集めて集団を作るとその集団は何もしないただ、静かな集団になるのかといえば、そうではないんだと思います。その中でも、全体を引っぱっていく人がでてくるはずです(アリはこういう性質をもっているようです)。
つまり、何が言いたいのかというと、集団の中の役割を勝手に判断して、ものを見なくてもいいんじゃないのということです。
そこで集まった人同士で何とか解決するんじゃないのということです。
人間はそれができるから、ここまで生き残れてきたはずです。
この間、二人で散歩をしているおばあちゃん達を見て、「集団」というものについて考えました。
そのおばあちゃん達のやりとりを聞いた訳ではないのですが、少ない経験上、おばあちゃんが二人いると大抵は一人が気の強いぐいぐい人を引っぱるようなおばあちゃんで、もう一人はそのおばあちゃんの言うことを横で優しく頷きながら聞いているような優しそうなおばあちゃんじゃないのかなと思うんです。
これ、別におばあちゃんだけに当てはまることではないと思っています。その傾向の強弱はあるにしても、だいたい仲の良い二人組とかってこんな感じの関係だったりしませんか?
もちろん、全てではありませんが。
引き続いておばあちゃんを例えにだしますが、優しそうなおばあちゃんも違うおばあちゃんとペアになると立場が逆転することもあるんだろうと思います。
僕たちだって、全ての人に同じ対応をしているわけではありませんよね。会社での自分、恋人といる時の自分、家族といる時にの自分、友達といる時の自分って同じではないと思うんです。
それぞれの関係の中にあった自分に変化しているはずです。だからどんな人間で集団を作ったとしても、誰かが全体を引っぱっていくんだろうし、誰かが何も言わないような黙っている人にもなる(それがいけないという訳ではありませんよ)。
じゃ、黙って物静かな人ばかりを集めて集団を作るとその集団は何もしないただ、静かな集団になるのかといえば、そうではないんだと思います。その中でも、全体を引っぱっていく人がでてくるはずです(アリはこういう性質をもっているようです)。
つまり、何が言いたいのかというと、集団の中の役割を勝手に判断して、ものを見なくてもいいんじゃないのということです。
そこで集まった人同士で何とか解決するんじゃないのということです。
人間はそれができるから、ここまで生き残れてきたはずです。
2012年2月2日木曜日
ムシ2
今、読んでいる本の一つにひたすら大人が虫について語っている本があります。
その大人は養老さんだったり、池田清彦さんなどというおなじみの方々なのですが、この本、とってもおもしろいんです。もう、ぐいぐい読み進めています。
そんな本を読んでいるとやっぱり思い出してしまうんです。自分がひたすら虫ばかり捕まえていた頃を。
それは、それは狂うほど虫に夢中になっていました。大きな石を見つけるとその石を裏返して何かいないかと探していました。だいたいの目当てはハサミムシでしたね。あの細長い胴体にキリッとしたハサミが何とも言えないくらいかっこよかった。カタツムリやダンゴムシ、アリにカナブンもとにかくアホみたいに捕まえていました。
特にカマキリとてんとう虫は大好きで、カマキリなんかは草むらで草と同化していても簡単に見つけていました。もちろん、ものすごく草むらを凝視してはいましたが。本当にたくさん捕まえて、多くの時間、観察しました。
そんなことをしていると幼いながらにいろいろ分かってくるんですよね。この時期にはここにはあの虫はいないな〜とか。何かこの石の裏にいそうなきがするんだよな〜とか。いい草むらだなとか。いろいろなことが直感というか感覚というそういうもので分かるような気がするんです。
これって結構、大切なことなのかなと思います。直感って勘とかと似ているものだと思うんですが、この勘って案外ちゃんとしているものだと思うんです。
直感とか勘って今まで経験してきたことが集約されて最善の方法として出てくるものらしいんです。今までの経験の最高の形が直感だと。そうなるとその感覚を磨くためにはとにかくいろいろな経験をした方がいいんだと思います。
子どもの頃は特にそうかもしれません。自分で試して、考えて、動いたその結果をたくさん貯めておく。子どもってそんなことをたくさん繰り返しながら大人になっていくんだろうなと思ってみたのです。
よく分からないかもしれませんが、なんとなく伝わればいいです笑
その大人は養老さんだったり、池田清彦さんなどというおなじみの方々なのですが、この本、とってもおもしろいんです。もう、ぐいぐい読み進めています。
そんな本を読んでいるとやっぱり思い出してしまうんです。自分がひたすら虫ばかり捕まえていた頃を。
それは、それは狂うほど虫に夢中になっていました。大きな石を見つけるとその石を裏返して何かいないかと探していました。だいたいの目当てはハサミムシでしたね。あの細長い胴体にキリッとしたハサミが何とも言えないくらいかっこよかった。カタツムリやダンゴムシ、アリにカナブンもとにかくアホみたいに捕まえていました。
特にカマキリとてんとう虫は大好きで、カマキリなんかは草むらで草と同化していても簡単に見つけていました。もちろん、ものすごく草むらを凝視してはいましたが。本当にたくさん捕まえて、多くの時間、観察しました。
そんなことをしていると幼いながらにいろいろ分かってくるんですよね。この時期にはここにはあの虫はいないな〜とか。何かこの石の裏にいそうなきがするんだよな〜とか。いい草むらだなとか。いろいろなことが直感というか感覚というそういうもので分かるような気がするんです。
これって結構、大切なことなのかなと思います。直感って勘とかと似ているものだと思うんですが、この勘って案外ちゃんとしているものだと思うんです。
直感とか勘って今まで経験してきたことが集約されて最善の方法として出てくるものらしいんです。今までの経験の最高の形が直感だと。そうなるとその感覚を磨くためにはとにかくいろいろな経験をした方がいいんだと思います。
子どもの頃は特にそうかもしれません。自分で試して、考えて、動いたその結果をたくさん貯めておく。子どもってそんなことをたくさん繰り返しながら大人になっていくんだろうなと思ってみたのです。
よく分からないかもしれませんが、なんとなく伝わればいいです笑
2012年1月24日火曜日
障害
先日まで朝日新聞で吃音をもつヒカル君の特集(全8回)が掲載されていました。
吃音を持っていることで、周りからいじめられたり、からかわれたりし、たくさん泣いて、たくさん悩んできたことが記事には書いてありました。
また、ヒカル君は小学校に入学してから言語訓練に通い始めたそうです。
吃音を持っていることで、周りからいじめられたり、からかわれたりし、たくさん泣いて、たくさん悩んできたことが記事には書いてありました。
また、ヒカル君は小学校に入学してから言語訓練に通い始めたそうです。
ですが、ある日「訓練」という言葉を辞書で引いた時に訓練の意味(あることを教え、継続的に練習させ、体得させること)に違和感を覚えたそうです。ヒカル君は練習などで吃音を治そうとするのは今の自分を否定されているような気がすると感じ、担当の先生と相談して言語訓練を「ことばの教室」と呼ぶことにしたそうです。
記事の中では、辛い経験をしても、吃音をもつ自分を受け入れようとしてきたヒカル君がいました。
最後にヒカル君は「今はある程度、自分の吃音と向き合い、受け入れられていると思う」と語っています。受け入れるってどういうこと?と問われると、「自分を好きになることかな」とこたえています。
時を同じくして、「早期教育と脳 」、「発達障害の子どもを理解する」という小西行郎さんの著書に出会いました。その中で、【私は障害児・者の問題は、彼ら個人の問題ではなく、むしろ周囲にいる私達いわゆる健常者の問題であることを確信したのです。ハンデのある物が努力して変わるより、そうでない健常者が受け入れることの方が容易で安全かもしれません】という文章がありました。
様々な障害を持ち、生活をされている方はたくさんおられます。障害を持った人たちに訓練や治療することで日常生活を送りやすく・・・というような言葉をよく耳にします。障害を持つ人たちが訓練しなければ日常生活が送れないということそのものが何か違うんじゃないんかなとも思っています。小西さんが言われるようにそれよりもまず、障害を持つ人の周りの人間である我々が考え方を変えるべきという言葉にとても納得しました。こんなことを言っている僕も何だか線を引いているようで嫌なのですが。
社会に出るために障害を治す、訓練するという考え方よりも、それを自分自身が受け入れる。社会が受け入れるような方向へ進んでいけばいいなと思いながら読ませていただきました。
ヒカル君の記事や小西さんの本から、まずは自分が持っている障害というものをより、考えるきっかけになりました。一人の人間として、また周囲の人間として、考えることがたくさんありそうです。
まだまだ、何もわかっていません。
(最近ではその子なりの特性、個性ということを考えずに安易に障害という診断をされる子どもが増えていることも小西さんは指摘させておられます。なんだかある枠の中にいればいい子なんだという考え方があるような気がしてなりません。その子、その子をしっかり見守っていくことを忘れてはいけないと思っています。)
繰り返しますが僕はまだまだ何も分かっていません。だからこそ、分かろうとすることを止めたくありません。意識することをつい忘れてしまいそうになる日常を大切に考えて過ごしていきたいと思います。
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