2012年1月24日火曜日

障害

先日まで朝日新聞で吃音をもつヒカル君の特集(全8回)が掲載されていました。
吃音を持っていることで、周りからいじめられたり、からかわれたりし、たくさん泣いて、たくさん悩んできたことが記事には書いてありました。


また、ヒカル君は小学校に入学してから言語訓練に通い始めたそうです。
ですが、ある日「訓練」という言葉を辞書で引いた時に訓練の意味(あることを教え、継続的に練習させ、体得させること)に違和感を覚えたそうです。ヒカル君は練習などで吃音を治そうとするのは今の自分を否定されているような気がすると感じ、担当の先生と相談して言語訓練を「ことばの教室」と呼ぶことにしたそうです。
記事の中では、辛い経験をしても、吃音をもつ自分を受け入れようとしてきたヒカル君がいました。

最後にヒカル君は「今はある程度、自分の吃音と向き合い、受け入れられていると思う」と語っています。受け入れるってどういうこと?と問われると、「自分を好きになることかな」とこたえています。


時を同じくして、「早期教育と脳 」、「発達障害の子どもを理解する」という小西行郎さんの著書に出会いました。その中で、【私は障害児・者の問題は、彼ら個人の問題ではなく、むしろ周囲にいる私達いわゆる健常者の問題であることを確信したのです。ハンデのある物が努力して変わるより、そうでない健常者が受け入れることの方が容易で安全かもしれません】という文章がありました。

様々な障害を持ち、生活をされている方はたくさんおられます。障害を持った人たちに訓練や治療することで日常生活を送りやすく・・・というような言葉をよく耳にします。障害を持つ人たちが訓練しなければ日常生活が送れないということそのものが何か違うんじゃないんかなとも思っています。小西さんが言われるようにそれよりもまず、障害を持つ人の周りの人間である我々が考え方を変えるべきという言葉にとても納得しました。こんなことを言っている僕も何だか線を引いているようで嫌なのですが。


社会に出るために障害を治す、訓練するという考え方よりも、それを自分自身が受け入れる。社会が受け入れるような方向へ進んでいけばいいなと思いながら読ませていただきました。


ヒカル君の記事や小西さんの本から、まずは自分が持っている障害というものをより、考えるきっかけになりました。一人の人間として、また周囲の人間として、考えることがたくさんありそうです。
まだまだ、何もわかっていません。

(最近ではその子なりの特性、個性ということを考えずに安易に障害という診断をされる子どもが増えていることも小西さんは指摘させておられます。なんだかある枠の中にいればいい子なんだという考え方があるような気がしてなりません。その子、その子をしっかり見守っていくことを忘れてはいけないと思っています。)

繰り返しますが僕はまだまだ何も分かっていません。だからこそ、分かろうとすることを止めたくありません。意識することをつい忘れてしまいそうになる日常を大切に考えて過ごしていきたいと思います。

2012年1月17日火曜日

森のようちえん まるたんぼう

先日、「鳥取県智頭町森のようちえん まるたんぼう」さんの所へ行ってきました。
職場の先輩と3人での楽しいプチ旅行のような旅でした。
まるたんぼうさんの所へは何度かお邪魔しているのですが、冬の時期は初めてだったため、白一色の風景には興奮してしまいました。
 

まるたんぼうのスッタフのみなさんにも温かく迎えられ、自然たっぷりのまるたんぼうを満喫しました。

そして、大人4人による(まるたんぼう対僕たち)雪合戦も白熱しました。激闘は1時間以上にもなりましたが、全く疲れを見せないまるたんぼうチームには驚きました。
我々というと体力、気力ともにボロボロになりました。来年の冬にはリベンジです!
戦いの後のご飯もおいしかったのですが、汗で冷え切った体が震えていて、味わってたべることができませんでした笑
これも、どれもいい思い出です。
まるたんぼうハウスに帰ってからはいろいろな話で盛り上がり、ここでも楽しい時間を過ごすことができました。
いや~今回も本当に気持ちがスッキリ!という感じで、体の中のストレスが全てなくなるような感覚を味わいました。
また、遊びに行きます!



 




2012年1月11日水曜日

ここにいます

なんだか分からないけど、いつも焦っている自分がいます。なんとなくですが、その焦りがあまり意味のないものだということが少し分かってきました。
だから焦るのを止めるように意識しようと思います。

焦るってどういう感情なんでしょうか?

いい意味で自分を中心にしてゆっくり進んでいけば焦らなくなるような気がするんです(僕の場合は)。
自分を中心にできればゆっくり進めるのだと思うので、少し矛盾していますが。


相手を中心に、ん〜中心とまではいかなくても、誰かの存在を異常に意識してしまうとその相手に中心を合わせようとしてしまう。そうするともう、自分のペースじゃないですよね。



だから焦ってしまうんでしょうね。もう、これはおしまいです。もう少し自分に向き合おうと思います。うん、そうします。

年が明けてからそんなことばかり考えていました。少しは整理できたのかな。

2012年1月1日日曜日

2012年

2012年が明けました。今年は辰年。年男なんです。そんな今年、どんな目標で一年過ごそうかと考えていました。いろいろ考え過ぎても仕方がないので直感的に思い浮かんだことを目標にしていこうと思います。



それは「焦らない」ということです。とにかく、様々なことについて焦らないことです。結果を早急に求めてしまったり、プロセスを大切にしなかったりしないことです。



「時期尚早」という言葉が昨年の自分を表す言葉だったように思います。今年はその反省が活かせるようにしたいですね。
加えて、昨年からの目標である「よく考え、実際に行動する」ということも頑張っていきたいと思います。

2011年12月24日土曜日

科学 カガク かがく

この4月から保育所で「かがくの じかん」というものに取り組んでいます。「かがく」といっても堅苦しいものではなく、簡単な実験を子どもたちと経験していくという感じで行っています。

科学と言われるとどうしても小難しいことを想像してしまうかもしれませんが、科学は僕たちの生活の中に自然と存在しているものだと思っています。「8歳までに経験しておきたい科学」という本にこんな言葉があります。「世界をわかろうとする人間の内的な欲求は組織化され、情報を集め、テストし、共有するためのきちんとした方法へと発展しました。そして、それは科学と呼ばれるようになりました」
こう考えると僕たちの周りにはそんな内的な欲求を発展させてきたもので溢れていることがよく分かります。実際に「科学(science)」という語は、ラテン語の「scire」を語源としています。「scire」とは「知ること」という意味です。
その本には続いてこう書かれてあります。「私たちが子どもたちに興味のある科学体験をさせるとき、知るという人間の自然な能力を育んでいることになります」



科学的な体験を通して、子どもたちは「不思議!!」という感情を抱きます。そして、その不思議はもっと知りたいという感情につながっていくんだと思っています。
知るということを支えてくれる感情に「好奇心」や「探究心」というものがあります。好奇心は「何かを学びたいと思ったり、知りたいと思う欲求のこと」と定義されています。つまりこの好奇心や探究心を育てるということは学ぶ力を育てるということになります。その学びの方向は子どもたちにの数だけあり、子どもたちが興味を持っていくことなのでしょうが、その基礎となる部分をしっかり支えていきたいなと思っています。


今後これらが発展していった先に「論理的思考」や「自己効力感や問題解決能力」というものがあります。論理的思考というのは「思いやり」につながると考えています。それは例えば、「〇〇ちゃんはこういう嫌なことがあったから泣いているんだ、だからきっと悲しいはず」というように相手の今の気持ちを察するということでもあると思うんです。


今やっている「かがくの じかん」では必要以上に論理性を求めようとは思っていません。実験を通して、子どもたちが「不思議だな!!」と感じ、「もっと知りたいな!」という好奇心の芽が育つように、感じること、体験することを大切にしていきたいと思っています。

なんだかごちゃごちゃしてしまいました。
伝わったかな.....伝わらないということはまだちゃんと理解できてないんだろうな。

2011年12月18日日曜日

会話

僕達は芸人さんではないので、誰かと話をする時にそれほど「面白い話」をしようと意識はしないと思います。
でも、少しニュアンスを変えてみたり、話の組み立てを変えてみたりして、相手に伝わるようにと、面白おかしく話を組み立てることはよくあるのではないでしょうか。



それはただ「面白い人」になりたいということではなく、自分の話を聞いてくれる相手への敬意にも似てる気がするんです。
自分の話を退屈そうに聞かす訳にはいかないから面白い話をしてみようとか。自分の話ばかりしなように気をつけようとか。




会話って自己満足で終わってはいけないものなのかなと最近よく思います。
相手がいて成り立つものなので特にそうなんだろうと思います。だから、逆に自己中心的な人はどうしてもその性格が会話にでてしまうのではないでしょうか。
相手を気にせずに会話をするというように。




それは会話ではないのかもしれませんね。会話は相手を思いやる一つの形でもあるんだと思います。
ということは性格が変われば会話も変わるのかもしれません。
いや、むしろ会話から性格を変えるということもできるのかも。

自分自身も明日からその辺りを意識して人と関わらないと訳なんです。

2011年12月11日日曜日

あの頃の僕

僕はとても楽しくて、バカバカしい少年期を過ごしてきたと思っています。

小学生の時にはとにかく毎日、誰かを笑わすことしか考えていませんでした。お風呂の中で明日はこんな風に笑いをとろうとよく考えていたものです。
学習発表会に向けての全体練習の場では毎回セリフにアレンジを加えて、その場のみんなから笑いをとろうと必死でした。

授業中も同じで、先生の揚げ足をとってばかりいました。これは今もかもしれませんが、長期休み(夏休み、冬休み、春休みなど)明けの初日にはみんなに会えた喜びと、久々にみんなを笑わせたいという思いで喋りまくり、毎回必ず、喉を痛めていました。

それに加え、無謀なことも考えるようになってきました。中学1年の時には剣道部に所属していながら、野球に目覚め、専門書を読んでは自宅倉庫で一人練習をしていました。時には弟(野球部)を相手に投げ込みの練習もして、フォームの確認、コントロール、変化球や直球に磨きをかけていました。その頃は本当にプロ野球選手を目指していたんです 笑

体育大会や地区の陸上競技大会で陸上部に勝つために古武術で有名な甲野善紀さんが陸上選手に指導したなんば走り(右手と右足、左手と左足を同時に出す)を習得するために学校からの帰り道を変な歩き方で帰ったりしていました。

どの挑戦も無謀で、まったく見通しのないものでした。アホです。

そんなアホなことの集合体が僕なんです  笑