2012年12月29日土曜日

なんでもないことです、なんでも

しばらく体調を崩していました。だいたい冬になると体調を崩してしまうんです。冬には生命の危機すら感じています。だから、たぶん、あまり冬が好きになれないんじゃないかと思います。だって、生命の危機を感じるんですから。


体調を崩している期間、本当に辛く、退屈な日々でした。もう一生、健康になれないんじゃないのだろうか.....なんて思えるほど。で、やっぱりそんな状態の時に思う事って、「あ〜健康って素晴らしいな〜」ってことだったんですよね(あ、「もう、このままずっと健康になんてなれないんじゃないか」ってことも思っちゃいました)。


「健康って素晴らしい」、「なんでもない日常よアゲイン!!」ってことを激しい頭痛や高熱の苦しみの中で叫んでいました。
こういう時に、より強く日々のありがたさみたいなものを実感するんですかね。


そして、なんとか回復いたしまして、徐々に日常の時間を取り戻しております。毎年、この時期には体調を崩しがちということは先に言いましたが、今回はいつもより強く、健康に動いている日々に感謝をしながら床に伏せておりました。

ここ最近、自分の中から野心や卑しい心が出てくると「いやいや、なんでもない日常、ありふれた日常こそが幸せなんだ自分!!もっと謙虚になりやがれ!!」と言い聞かせていたからでしょうか......言い聞かせていたというより、そんなことを自然と思うようになっているからなのでしょうか.......まあ、どっちでもいいです!

ですので、回復した今、「健康って素晴らしい!」、「なんでもない日ありがとう!(ちなみにこれは糸井重里さんが言われている言葉です)」と強く思っているのです。そんな年の瀬なのです。


みなさんは、健康ですか?健康って思ってるより、何倍も幸せなことで、素敵なことなんですよね。





2012年12月23日日曜日

思い出を思いだしました

小学校での日々って、僕の中では、かなりいい思い出として残っています。

小学生の頃って徐々に「女子」を意識し始めますよね?よね?え?ですよね?
僕もそれは、それは意識していました笑。 
つまり、アピールですね。それって簡単に言っちゃうと「どうやったらかっこよく見えるか(女子に)」ってことだったんだと思います。
きっと、小学生も高学年になろう子どもたちなら多少なりとも「これ」を意識し始めるはずです。きっと!僕はそうだった笑!


で、僕はというとその「どうやったらかっこよく見えるか」ってことを考えた時に「おもしろくなることだ!」ということになったんです。おもしろい=目立つ=かっこいいんだ!という結構、強引な考え方を「ん〜それだ!!」と採用してしまったのです。なんだったら、もう保育園とか小学校の低学年の頃から「目立つ」存在ではあったと思うんですが、中学年から高学年にかけて、その考え方を固めてしまいました。


そんな考え方を採用してしまった僕はどうなったかと言いますと.....それは、もう、本当に、ふざけていました。ただ、僕としては闇雲に、妨害的に、有害的にふざけていたつもりではありません!!先生が話す内容に少しでも「構いたくなる」部分が登場すると「うおりゃ〜」と攻撃を仕掛けていっていました(あれ、妨害的?いやいや違います!)ですから、先生としてはちょっと面倒な子どもでもあったんだろうと思います。でも、「妨害」までのことはやっていなかったはずです!いや、本当に!
あくまでも、クラスのみんなが笑ってくれることを望んでいたので.....


「学習発表会」なんかではセリフの変更は当たり前で、練習の度に笑いをとろうとしていたので、毎回セリフを変えていました。当然、当日も今までに言ったことのないセリフを言ったり......

そんなことを思い出して、思ったんですよ!!僕は、なんて迷惑な奴だったんだと!!
ただ、このどうしようもない僕を僕が過ごした小学校の先生方はどちらかといえば好意的(好意的かは分かりませんが...僕はそうだっただろうと思っています。勝手に笑)に受けとめてくれたんです(調子に乗って、怒られたことはよくありましたが...)。
それがなんだか嬉しかったんです。過ごしやすかったんです。だから、僕の小学校の頃の思い出はわりとキラキラしているんです。



なんてことを思い出したんです。
冬に思い出す、思い出はなんだか暖かさがあって、いいもんですね〜。


2012年12月12日水曜日

しっかりと

しっかりしろよ ほんと しっかりしろよ ほんとうに しっかりと。

雲を掴む感覚だったんだろうけど その雲を掴むために もっともっと 考えたのか。

長いはしごはどうだろう? 強力な掃除機ならどうだ? 大きな袋ならいけそうかな?

そんな風に考えたのか? そして やってみようとしたのか?

結局は見上げていただけなんだ。 やっぱりそうなんだ。

だったらこれから考えて もっとやってみなよ。

どうしたら掴めたのか なんで掴めなかったのか 

掴む気持はあったんだろ?

もちろん。

だったら。

そして見上げるんじゃなくて 見つめてみたらどうだい?

もちろん見つめたつもりなのかもしれない。でも もっと見つめた方がいい。

しっかりしろよ ほんと しっかり な。



しっかりしたいよ いつも思っているよ。

でも、うまくいかないことばかりなんだ。だけど しっかりしたいから しっかりするよ

って言うよ。思い続けるよ。しっかりと。

思っていれば 変われるよ。きっと しっかりな。



2012年11月27日火曜日

えいが

映画っていいですよね。特に映画館で鑑賞するのが好きです。なんだかワクワクするんですよね。映画館。

始まる前の予告も好きです。どの映画も観てみたくなるあの予告を作る人は凄いですね。ナレーションのなんとも言えない息づかいもいいんですよね。
「この秋、あなたに訪れる感動〜」みたいなことをちょっと間を置いて言われたりすると「おお〜こりゃ観たい!!」となっちゃうんですよね。

「あなたはこの衝撃に耐えられるか」とか言われちゃうんとこれもまた、たまりませんね。

映画館で鑑賞することでいいことって、抜群に集中できことなんですよね。物語に。もちろん、僕の中ではですが。
そんでもって、観終わった後なんて、小一時間はその映画の話で盛り上がれちゃう訳なんですよ。うっとうしいですって?はい、うっとうしいと思います。

もちろん、DVDでの鑑賞もいいですよね。好きな飲み物を用意して、部屋を薄暗くして、ちょっと夜更かしな時間帯に観るのもたまりません。

でも、できることなら、できるかぎりは、できる範囲内で、映画館に足を運んで映画は観たいなと思っています。

それだけです.....笑




2012年11月16日金曜日

ふつうのひと

「変わってるよね」とか「変な人だよね」ということをよく言われるんです、僕。
自分ではそんな意識はないんですけどね。

で、変わってる人の向こう側にいるのは「ふつうの人」と言われる存在だったりすると思うんです。



でも、「ふつうの人」ってなに?どんな人のこと?そもそもふつうなんて考えはないんじゃない?みんなそれぞれ、違うんだから......
みたいな「ふつう」ということへの違和感とか、毛嫌いみたいな感覚って結構、言われたりしていますよね?自分は自分。みたいな価値観の世界ではやっぱり、この「ふつう」って毛嫌いされているんでしょうね。



僕も「ふつう」をどこかでそんなふうに感じているんだと思います。

で、そんな「ふつう」についてちょっと考えてみると、僕にとっての「ふつう」って意外と必要なことなのかもしれないぞと思えてきたんです。「ふつう」=他人への配慮とか謙虚な態度っていうことになったんです。僕の中で。これ、あくまでも僕の中です。

「ふつう」って、最低限意識しておかなければならない態度だと思うと、これはやっぱり必要じゃないかと。これは毛嫌いしている場合ではないぞと。単なる同調とか、みんなと一緒とか、当たり障りのない.....とかいうことではないぞと。

とりあえずの「最低ライン」が「ふつう」だとするなら、おいおい、おいらはそれを無視してはけないぞと思っています。ということはきっと、無視していたんですよね。
何様のつもりだ!わたし!




2012年11月8日木曜日

めうつり

走りたくなったら、ちょこちょこっと走っています。でも、僕は「ランナー」ではありません。でも、でもランナーと言われればランナーなんですが、ん〜、やっぱりランナーではありません。

「たつやー」です。なんだかよく分かりませんね。
で、そんな「たつやー」が先週、職員旅行で大阪を訪れた際に、早朝の大阪市内を走ってみたんです。
知らない土地を走るのって気持がいいですね。それに時間の経過を忘れてしまいます。気がついたらホテルの前まで戻っていました。

なぜ、この大阪でのランニングは時間を忘れるようなランニングになったんだろうかと考えてみました。そして、僕なりに出た結論が「目移り」です。

大阪の市内なんて、僕の住んでいる町とは違い、とにかくお店がたくさんあります。「おっ?このお店はなんだ?」、「むむ!かわいいお店だな!」、「おや、このお店はここにあったのか!」みたいな感じで、次から次へと目が移ります。

そんな感じで目が移っていると「走っている」ということに意識がいかなくなって、町の方に意識が飛んじゃうんです。実際に、大阪を走っていて、「そろそろひきかえそうかな〜」っと思っていたのに、【大阪市役所】という看板を目にしてしまい、体が勝手にそこへ引き寄せられていました。もう、この時って走ることに意識はなくて、市役所を見たいがエネルギーになっているんですよね〜。




で、何が言いたいのかといいますと、そんな気持で普段のランニングをしたいなと。毎日、ほぼ同じコースを走っているとそれに慣れてしまい、どんどん走ることに意識がいって、「ちょっと、つらいな〜」と思うこともあったりすんです。だって、周りのものに目移りするような刺激はありませんからね。

じゃあどうすればいいのか。もう頭の中で目移り状態を作ってしまえばいいんですよ!そうすれば、きっとあっという間に走り終わっているはずなんですw

「おいおい、さっきお前は"僕はランナーじゃありません"って言ってたじゃないか。だったらそこまで走る必要ないだろ。走りたくない時は走るなよ」というお言葉が聞こえてきそうですね。その通りです!!そんな時は無理して走らなくていいんですよ!

でも、体は嫌でも頭がどうしても「今日は走らないと!」と言っている日があるんです。そんな時は走らないと、どうも気持が悪くなるんです。だから、そんな時にこの「脳内目移り」を試してみようと思ったんです。
はい、そうなんです。


(あっ、実際に今日試してみました。今日はうまくいった気がします.....w)




2012年10月27日土曜日

ねはふかし

ここ1、2ヶ月ぐらい、は今までにないくらいの悩みの中にいます(ん〜でも、悩みのスタートを考えると、ここ1年以上はその中にいますね)。抜けれそう!と思うと、いやいや、まだまだトンネルは続いていたりして.....といった感じです。あまりにも長い迷いの中なので、ちょっと心配になったりもするんですが、今までの自分と向き合う時間なのかなと思ったりもしています。



やっぱり悩みや迷いの中にいるので、どうしたって楽しくはありません。時折、なんにもできないくらい動けなくなり、落ち込んでしまうこともあります。



でも、どこかで「それを楽しんじゃえよ」と言っている自分、思おうとしている自分がいて、なんとなく少しずつそう思えるようになってきてはいるんです。



いつ抜け出せるかは分かりません、でも間違いないのは自分自身の力で抜け出るしかないんだということです。だから、きっとまだまだかかる作業なんだと思います。
はい、「作業」だと思っています。
丁寧に丁寧に紡いでいく作業なんだと思います。


そんな作業をなるべく楽しいと思えるようにやっていくしかないんだな〜






2012年10月26日金曜日

くぅ~

CSシリーズを制し、リーグ優勝を果たしたジャイアンツですが、10月7日に行われたリーグ最終戦で、ちょっといい話があったんです。

その日の試合前まで、ジャイアンツを支える坂本選手が170安打、長野選手が173安打という状況で最多安打賞を争っていました。

坂本選手は7回までに3安打を放ち、それまで無安打だった長野選手と173安打で並びました。そして、長野選手の打席が回ってきました。ここで、長野選手がヒットを打てば174安打で坂本選手を抜き、トップに立ちます。

しかし、長野選手が打席に立つ前に長野選手の気持ちを察した原監督が「この打席、どうしたいかは君にまかせるよ」と声をかけたそうです。

その言葉で長野選手は「僕は引っ込みます」と言って、打席に立たないという選択をしました。そして、ベンチに帰り、塁上にいる坂本選手に「一緒に最多安打のタイトルがとれたな!」という意味を込めて、ガッツポーズをしたんだとか。その姿に坂本選手は涙を浮かべていたそうです。

しかも、長野選手はこの試合2打席立っていますが、追いつこうとしている坂本選手のために安打は打てないと、しかしチームには貢献すべきだということで、必死に四球を狙っていたというんです。

原監督はこれを「ジャイアンツ愛」と呼びました。そして、坂本、長野選手は2人で最多安打のタイトルをとることになりました。


僕はこの話を聞いた時に、なにより原監督のすごさを感じました。選手の気持ちを察し、長野選手にどうしたいかを確認した姿、そして、なによりこの2人の関係を生んでいるのは原監督が作り出したチームの雰囲気じゃないかなと思ったんです。


それが今のジャイアンツなんじゃないかと。ただ、戦うだけの集団じゃないような気さえします。
まあこちらの一方的な想像なのですが、なんだかそう思ったんです。

良い指揮官、良いリーダーがいるからこそ、そのチーム、集団は良い雰囲気になっていくんでしょうね。分かりませんが、そんなことを思ったのでした。

2012年10月17日水曜日

エネルギー切れ

10月に入り、気温も下がり、走りやすい気候になってきました。ということで、先日、ゆっくりと長い距離を走ってみました。

まずは10月6日に20㎞のランニング。1㎞7分台というゆっくりとしたペースで走ることを目標に、久々の20㎞ランに挑戦。ゆっくり走ったので、筋肉への負担はほとんどありませんでした。

しかし、水分補強を一切せずに走ったので、途中で口の中がパサパサになり、脱水のような感じになってしまいました。

次の長距離走は10月13日に25㎞。こちらも1㎞7分台で走りました。前回の20㎞ランでの水分補強の反省を活かし、今回は250円をポケットにしのばせてのランニングでした。

12㎞ほど走った地点でポカリスエットを購入。残金は100余円。ポカリスエットを飲み終わり、1㎞ほど走った所で......「なんだか、今日は違う!!」という感覚が。身体が重たくて(あ、いつも重たいですが〜)、足が前に進んでいかないのです。
「なんだろう?このエネルギーが切れたような感覚は.....」と考えていて、思い当たりました。朝から何も口にせずに走っていたのです。そのためか、もう電池切れみたいな感覚に。

ポケットには100余円しかない......迷ったのですが、ここで食べ物を買っても喉を潤すものが買えない!!と思い、18㎞走った所でお茶を購入することに。

もうほとんどエネルギー切れの状態なので、すり足のようにして、なんとか25㎞を走ることができました。


え〜普通の人ならこんな状況にはならないですよねw
なんだか分かりませんが「まあ水分補給しなくても大丈夫でしょ!」とか「ご飯食べてないけど、大丈夫、大丈夫!」となんとも甘い考えで走っていたんですよね。
僕はこうやって経験していかないとダメなんでしょうね......でも、水分補強とランニング前のエネルギーの補給は大切なんだぞ!と身をもって体験いたしましたぞ!!自慢になりませんねw

2012年10月10日水曜日

〜のような。


「夢は大きく持った方がいい」や「人生一度きりなんだから挑戦しないと」とか「自分の人生、好きなように生きなきゃ」という言葉をよく聞きます。
僕もちょっと前まではこの言葉を「きっと、そうなんだろう!」と思って、けっこう前に出していたように思います。



でも、なんだか最近、この言葉が自分の中で変化してきたんです。ちょっと違う解釈をしていたんじゃないかなと思うようになりました。
それに「夢は大きく~」とか「人生一度きり~」という言葉にとらわれすぎていたんじゃないかとも思ったんです。

言葉を先に据えてしまうと「人生一度きりなんだから、何かしないといけない!なにかしてやろう!」というどうも、しっくりこない考え方になってしまったりするような。



それって、何だか未来とか先しか見ていない考え方なんじゃないかと。あとは周りの人とか。「周りもこんなことをやっているから俺も」、「将来はこうなりたいんだ」に疲れちゃうことってある気がします。


そうじゃなくて、とにかく「今、ここ」に向き合って、与えられたことを一生懸命やっているうちに何かやりたいことが出てきて、そのタイミングを逃さずに行動することが本当の意味の挑戦とかになってくるような、その方が気持ちいいような。


「今、ここ」に向き合って、誰と比較することなく、自分のペースを見つけていけたら、なんだか少しいろいろなことに対して、どっしり向き合えるんじゃないかと。それに、自分の夢に向ってもいいけど、誰かのことを思って、気遣って動いている人もかなりカッコいいですよね。 バランスなんですかね?

と、そんな感じの自分の中でこんな解釈に変わってきている気がします。


2012年9月14日金曜日

からだ

所ジョージさんの言葉や行動は時に強引なこともあるのですが(でも、一切他人には迷惑
をかけていないんです)、納得してしまう言葉も多く、僕の中では魅力的な存在です。

そんな所さんの言葉で「面倒くさいことが幸せなんだから」というものがあります。
最初はなんのことだかよく分かりませんでした。
今も「これだ!」という理解はしていないのですが、なんとなく、以前よりは「こんな感じのこと?」と思えるようになってきました。


そんな所さんの言葉と最近読み終えた【脳には妙なクセがある/池谷裕二】という本の内容が自分の中でリンクしました。


『ヒトの脳は身体の省略という美味しい芸当を覚えたがゆえに、身体性を軽視しがちです。身体を動かさずに、頭の中だけで済ませた方が楽なのはよく理解できます。しかし、脳は、元来は身体とともに機能するように生まれたものです。手で書く、声に出して読む、オモチャで遊ぶ.......活き活きとした実体験が、その後の脳の実体験に強い影響を与えるだろうことを、私は日々の脳研究を通じて直感しています』

『精神と身体は切り離して考えることはできません。心は脳にあるのではありません。心は身体や環境に散在するのです』


身体を使うということは面倒なことだと思います。動くというのは面倒なことなのかもしれません。それなりに筋肉を使います。神経も使います。そうすると疲れてしまいます。現代はその面倒くささをなんとか最小限に抑えて快適に生活しようとしてきたんだろうと思います。だからこそ、この身体を使うということが重要になってくるのかもしれません(この辺りは養老先生の話とかなりリンクするように思います)。

最後にネズミを用いたとある実験を紹介しています。
実験者がネズミのヒゲにモノを接触させた時のニューロンの反応と、ネズミが自らヒゲを動かして、モノに触れたときのニューロンの反応を比較した実験です。

ネズミ自らヒゲを動かした場合、そうでない場合と比べてニューロンの活動が10倍も強く活動したそうなんです。
ネズミが自ら身体運動をすることで脳はどんどん活動した.......なんだかとってもつながりそうなお話ですね。




2012年9月8日土曜日

こちら側からあちら側へ

「なんとかここまでできるようにしてあげよう」
「こうなれるようにしてあげよう」
というような言葉や姿勢?やり方に違和感を覚えることがあります。


「こうなってほしいと思う側」がいて、その「こうなってほしいと思う側」はなんとかその対象を「こうしよう」としている感じがするんです。
もちろん、そこに悪気なんてないんだと思います。


「こうなってほしい」にはどこか結果が即効的に求められるような気がします。
運動における技術の向上とかだとなんとなく受け入れやすいのですが、
例えばそれが人に向いた時に、やっぱり違和感を覚えるんです。


「こうなってほしいと思う側」の思いが強過ぎてしまうと「強引」になってしまうこともあるのかな。強引な姿勢は相手が人だった場合にはいろいろと問題も起きそうな気がします。
なんでしょう.....相手の気持ちを置いていっちゃている感じなのかな?


「こうなってほしい」の軸は「こうなってほしいと思う側」にあるんですかね?
もちろん「こうなってほしい」と思うことは大切なことで、考えていかなければいけないことだと思います。


それが、「こうなってほしいと思う側」に軸があるより、
「こうなってほしいと思う対象」に軸がある方が、その対象に寄り添っていけるのかなと思ったり。強引な感じにならないのかなと思ったり。


分かってなんていません。だから迷ってるんですよね。

気がつけば強引になっているのかもしれないし、迷って動けないこともあるし。
まだ、考えているだけです。動きには表れていないと思います。
無能さに気がつく毎日です。












2012年9月4日火曜日

しつ

僕は学生時代、剣道をしていました。中学校から始めて、高校までの6年間です。
高校の時には剣道を専門的に教えてくれる顧問の先生はいませんでした(外部のコーチはおられましたが、僕たちが高校2年の時に亡くなられました)。

ですので、優秀なキャプテンを中心に練習メニューや大会までの練習計画などは自分たちで考え、お互いに指導し合いながら毎日稽古をしていました。


その中で、稽古をするにあたり『量』を大切にするべきなのか、それとも『質』を大切にするべきなのかという話し合いを何度かしたのを覚えています。

ひたすらに稽古をして、ある程度のパターンや技を体に教え込ませる方がいいんじゃないのかという「量」の考え方。

一つひとつの技を集中して、考えて、くりだすことで、理想に近い技の練習を少しでも多くしていくことで量をこなさなくても短時間で技の精度を上げようという「質」の考え方。

それぞれの方法を試しながら、僕たちは「質」の練習に重点を置きながら、「量」の練習もしていくという方法を選びました。

今、思えば他にもいろいろな稽古の方法はあったと思います。力不足で、稽古不足だったということもあるんだと思います。まだまだ考えの甘い高校生が考える程度のことだったのかもしれません。

ですが、ふとその頃を思い出した時に、「いまの自分は毎日の生活の中での"質"を大切にしているのだろうか」と思ったんです。

毎日の生活を丁寧に集中して、地道にこつこつとやっていたのかなと。やっているつもりでした。でも、それは思い過ごしだったのかもしれないと思うことがあったからこそ、剣道をしていたあの頃を思い出したのではないでしょうか。

こうやって文章にしたり、口にするのは簡単なんですよね。でも、自分への意識づけの強い意味を込めて、ここに残しておきます。毎回こんな感じですが、何度も何度もこの繰り返しです。





2012年8月24日金曜日

感情

「8歳までに経験しておきたい科学/J.D.ハーレン・M.S.リプキン」という本があります。子どもたちと科学というものを考える時に何度も読み返している本です。

内容はなかなか難しく直ぐには理解できませんが、参考になる所もいくつかあるのでまだまだ読み込んでいきたいと思っています。

その中の言葉を少し紹介します。

「好奇心とは定義によれば、何かを学びたいと思ったり、何かを知りたいと思う欲求のことです。好奇心を感情によって引き起こされた活動と捉えています。好奇心は思考を促し、行動を引き出すのです」

「感情(emotion)という言葉は、(気持ちを)"かきたてる"とか"外へ向く"という意味の言葉に由来しています」

「思考や感情は、普通一緒に働きます。しかし、とても強い感情が起きると、なぜそうなるのか意識的に分からないうちに、行為が行われることもあります。感情は私たちの生活にとても重要なものです。私たちを導く感情なしには、決定することも計画することもでいないだろう。感情は私たちが生き延びていけるように進化してきたのである」

少し難しい表現ではあるのですが、「感情」というものの大切さを表している文章です。

「なにこれ!すごい!」、という感情や言葉では表せない感情から「こやってみたらどうかな?」、「ここはどうなっているんだろう?」、「もっと知りたい、もっと見てみたい」という好奇心につながっていくんですね。

この感情は科学だけではなく、子どもたちと関わる上でもとっても大切になるものだと思っています。

まだまだ分からないことばかりですが、感情というものについて意識していきます。

2012年8月14日火曜日

えかったな〜

映画「おおかみこどもの雨と雪」を観てきました。

「時をかける少女」、「サマーウォーズ」の監督でもある細田守さんの作品です。「時をかける少女」、「サマーウォーズ」もおもしろかったので、今回の作品も気になっていました。

一人で観ていたらずっと泣きっぱなしだっただろうなと思います。

右も左も分からないのに、とにかく笑顔で全力で前に進んでいこうとする母の姿。

子どもたちのためにひたすらに頑張る母の姿。

僕の中でのこの映画の中心はずっと「母の愛」でした。

それを包む周りの人達の描かれ方にもぐっときました。

もちろん、おおかみこどもの葛藤というのも話の中では大切なテーマになっているのですが、終始、僕の中では「母」がテーマなんですよね。

うん。

お母さんの声は宮﨑あおいさんが担当されていましたが、もう抜群ですね。たまりません。

なんて、観てない方には全く伝わりませんよね。

素敵な映画です。機会がある方は、ぜひ!!




2012年8月13日月曜日

ロンドンオリンピック

ロンドンオリンピックもそろそろ閉幕です。

人生のうちでまだ数回しか見れていないオリンピックですが、今回のオリンピックは今までで一番見続けたものになりました。

バレーや柔道、卓球に陸上、サッカーやレスリング、水泳に体操といろいろな種目を見ました。

ひたすらに一人で感動したりしていました。

その中でもメダルを取った選手、そうでなかった選手がいたわけですが、ほとんどの選手のみなさんが共通して、「支えてくださったみなさんのおかげでここまでこれました」というようなことを言われていました。

この言葉を本当に多くの選手から聞きました。この言葉にきっと嘘はないんだと思います。

だからこそ、選手のみなさんは周りの人に感謝をされているんだと思います。

そして、僕は「支えてくださったみなさんのおかげです」と言える選手のみなさんに感動しました。

まず、なによりもこの言葉はじめにでてくるってすごいと思うんです。

なんか、もうそれだけで金メダルですよ(よく、分かりませんが笑)。

「おれ、よくやった〜ここまでがんばった〜」って思ってもいいんです。いや、むしろ思うべきなんです。

でも、きっとこの言葉を言っている人の頭の中では、試合が終わった瞬間にお世話になった、あの人やあの人やあの方.......の顔が浮かんでいるんだろうな〜と思うと、人っていいな〜って。

ここに嘘はないから、スポーツって感動するのかな?選手の言葉、動きには嘘がないのは確かだと思います。

ホンモノって、ぐわっと心を動かしてしまうんですね。

たくさんのホンモノをテレビからではありますが、感じることができました。終わってしまうのは寂しいですが、ロンドンオリンピック、堪能しましたよ。

さて、2020年、この目でホンモノを見ることができたらいいな〜。

2012年8月12日日曜日

津和野で

先日、友人と津和野へ行ってきました。友人が稲荷神社に行っている間に少し、津和野の町を走ってみることに。
何も思いつきではなく、初めから走るつもりでばっちり準備はしていたんです笑
実際に津和野の町を走ってみましたが、気持ちよかったですね〜町はキレイだし、田んぼの横を流れている水路がもの凄くキレイで、水草が生えていたり、イトトンボが飛んでいたりするんです。もちろん鯉がたくさん泳いでいる水路も魚好きな僕としては魅力的なポイントだったのですが、なんでもない所にあったあのキレイな水路に感動してしましたた。感動して、写真を撮り忘れてしまいました〜。



走った後の温泉も最高でした。



2012年8月7日火曜日

まだまだですが.....

所ジョージさんの歌の中に「幸せの入り口」というものがあります。ちょっと歌詞を紹介しますね。

「幸せは どちらの場所に どなたのところに 届けましょう
お見のがしはないよう 心を ちょっとあけて
幸せは 誰にも届く あなたの前にも ひらいてしまうと
なくなりはしないかと ガマンしてる人に

涙 とめた あふれた ほんの少しが
あなたが 幸せ あけた分 どこかに 幸せ 入れた分

幸せは どちらの場所に どなたのところに 届けましょう
お見のがしはないよう 心を ちょっとあけて

幸せは あなた次第で どうにもなるさ
思い出して しまっておきなさいな 心を ちょっととじて
過ぎてゆく 時間の中で しがみつくのは
ほんの少し 幸せの入り口を 見かけたからでしょう

泣かないでね 笑ってヨ どちらの顔でしょう
あなたが幸せ わたす時 誰かが 幸せ くれた時

幸せは あなた次第で どうにもなるさ 思い出して
しまっておきなさいな 心を ちょっと とじて
お見のがしはないよう 心を ちょっと とめて」

先を見すぎてしまったり、誰かと比較することばかりに意識がいきすぎてしまうと、いつまでも幸せって訪れないのかもしれませんね。
とかく、若い頃なんて、誰かと比較することや他人には負けないぞみたいなイキイキした生のエネルギーが中心になっているのかもしれません。なんだか、僕がそんな感じになっている気がするんです。

誰かと比較ばかりしていると、ずーっと満足しないんですよね。比較する対象は次から次へと現れますから........これ、疲れちゃいますよ。本当に。
ずっと満たされないから、「幸せ」という形にはずっと辿り着けないんでしょうね。

だったらもっと簡単な幸せの形を自分自身で見つけた方がはるかに簡単なのかもしれません。先を見るわけでもなく、他人を見るわけでもなく、「今ここ」だけを見て、自分に向き合う姿勢でいたいなと最近は思うようになりました。

まだまだ、まだまだ、まだまだですけどねw


2012年7月29日日曜日

知らないんじゃなくて.....

「知らぬが仏」なんて言葉がありますよね。英語でも知らぬが仏とほとんど同じ意味の

ignorance is bliss(無知は至福である)」という言葉もあるそうです。

知らないでもいいことってあるんだと思います。それは人それぞれにあって、人によってその知らないでいいことは違うはずです。で、それはもっと言うと「今、自分は知らない方がいい」みたいなことになってくることもあって、自分の気持ち次第では知ってもいいんだけど、今はその気持ちではないんだということにもなる。知らない方が知るよりも明らかに自分のためになるんだったら、知らない方がいいに決まってます。でも、気になりますよね。でも、無理してでも知らない方がいいんです。だから、知らないでおこうと決めました。はい、ちょっと無理してでも。

2012年7月22日日曜日

語彙・読解力検定

6月に受けた語彙・読解力検定2級に合格していました。
ほっとしました。結果を見てみると、やはり読解力の部分が得意ということでした。
本を読むことは好きですし、これからもいろいろな本を読んでいきたいので、そのうち準1級を受けようかなと思います。そのうちですが。


2012年7月15日日曜日

太宰府の

福岡県太宰府市にあるスターバックスコーヒーへ行ってきました。「必ずここに行く」という思いを昨年、この店舗が完成した時から思っていましたが、意外と早くにその思いを実現することができました。



ここは「負ける建築」で有名な建築家の隈研吾さんの設計事務所(隈研吾都市設計事務所)が設計を手がけたものです。見た瞬間に「おお!」と声が出てしまいそうな独創的な建築ですよね。二千本にも及ぶ木を組み合わせて作られた空間には本当に圧倒させられました。

僕なんか建築のことは全く分かりませんが、以前何かの番組で隈研吾さんが出ておられるのものを見て、惹き付けられてしまいました。

隈さんの「負ける建築(本も出版されています)」とはまず、都会にある高層ビルや郊外の一戸建てを「勝つ建築」と考えます。多額のローンを組んで購入する住宅や同じようなデザインの住宅は都市で生活している人の精神を圧迫するし、周囲の環境とはまったく合わないと考え、それらを勝つ建築とし、その反対である負ける建築は周囲、自然とよく馴染み、柔軟性のある建築と考えるそうです。
建築家個人の美意識や独創性を重視するのではなく、周辺の環境へ配慮した建築をされています(帝京大学小学校の建築もされておられます)。

今回の太宰府のスターバックスコーヒーも太宰府天満宮の表参道にある伝統的な建築物に溶け込むという目的があったそうです。
実際に、表参道を歩きながら店舗を探していたのですが、見つけた時に驚きました。確かに店舗のデザインそのものは「おお!すごい!」と驚くものなのですが、そこにあることに対しての違和感がないんです。自然に「とん」という感じで建っていました。

店舗の中も狭さを感じさせないんです。そして、なにより木のいい香りがしました。この匂いを嗅ぎながらのコーヒーを飲むという贅沢な時間を堪能させてもらいました。




2012年7月10日火曜日

泰平のネズミ

今、養老孟司さんの「逆さメガネ」という本を読んでいます。その中の一部を紹介します。




【以前、大学の研究室で、ネズミを飼っていました。生まれた時から水や餌をやって、それを切らさないようにしてあります。そういうネズミは、なにもしません。檻から出しても逃げもしません。時々その姿が今の若者と重なります。そういうネズミを長く飼っていると情が移って、実験に使えなくなる…しょうがないから飼い殺しになっちゃう。餌は十分だし、ネズミは太っちゃう。なにをしてるかというと、暑い日にはひっくり返って腹を出して、上向いてねてます。ただし、口の先だけは吸水管にくっつけている。いつでも水が飲めるようにしてある。泰平のネズミ、まさに今の日本人ですな…これがいったん檻の外に出て、数日経ったらどうなるか。たちまちふつうのネズミになります。もう捕まりませんよ。机の縁を、ヒゲで恐る恐る触りながら歩いていた、あのネズミとは思えません。環境しだいで、生き物なんて、それほど違ってくるんです。だから教育なんです】



この話、孟母三遷とか門前の小僧…とかにもつながるんだと思います。
人って、特に子どもなどは良い意味でも悪い意味でもその環境に染まってしまうんですよね。
気をつけないといけないなと改めて思いました。

2012年7月8日日曜日

気持ちよく生きていきたいんです

自己中心的。
「何事も自分を中心に考え、他人については考えが及ばないさまをいう。自分勝手。利己的。」
ということみたいです。
この自己中心性ってたぶんみんなが持っているものなんだろうと思います。
僕なんかも間違いなく、持っています。どちらかと言うとこの自己中心的な自分の登場回数は多い方だと思います。
ふっと気がつくと「あっ、今の行動とか言葉って自己中心的かも」なんてよく思ったりします。

自己中心的な説明の中に「他人に対して考えが及ばない」というものがあります。
ここなんですよね。誰かの気持ちを考えないから、自分の思いをただズドン!と言っちゃったりしてしまう。自分のそんな言動が相手を不快にさせてしまうんですよね。他人を思いやるとか他人を主体に考えることの大切さを最近すごく意識するんです。この気持ちの登場回数が少ない人ってどうしても自分のものさしで相手に対して接してしまうことが多くなるんじゃないでしょうか。もちろん、僕も含めてです。いや、これは自分自身の話です。
それは子どもに対しても。僕たち子どもに関わる大人はもっともっとこの部分を大切にしないといけないはずです。

自分のことしか考えてないような人と接すると「あ〜自分も気をつけないとな〜こんな姿、自分にもあるのかな?」と気をつけるきっかけにもなります。

それは自分にもそんなところがあるからです。そんな時に「なにをやっているんだ、おれは......」と自分自身に悲しくなります。


自分のことしか考えないって、本当に気持ちよくないことだと思います。そんなことはしてはいけないなと思ったんです。
だから気をつけるんです。
そうなんです。それだけです。

2012年6月28日木曜日

ずっと気になっていまして。

学生の頃、運動部に所属していた人なら「道具を大切にしなさい」とか「挨拶をしなさい」なんて言われたことがあるのではないでしょうか。僕はこの言葉があまり好きではないんです。
この言葉と一緒に必ずついてくるのが、「道具を大切にしない人間は野球は上達しない」とか「挨拶もできない人間はバレーなんかうまくならない」といったかなり強引な意味の言葉なんですよね。
小学生とか中学生の頃ってわりと素直じゃないですか。だから、大人が言ってくるこういう言葉を信じちゃうんですよね。
「よし、グローブを大切にしよう!そしたら野球がうまくなるぞ!!」、「挨拶をちゃんとしよう!そしたらバレーがうまくなるぞ!!」なんて思っちゃいますよ。



もちろん、道具を大切にすることや挨拶をすることは大切なことだと思います。でも、はっきり言って、道具を大切にしても野球はうまくなりませんし、挨拶をしたからってバレーは上達しないと思います。

で、何が言いたいのかと言いますと、ちゃんと本当の意味を伝えてあげてほしいということなんです。

道具を大切にしてるから野球がうまくなるんじゃなくて、道具を大切に扱う子は野球に対して真剣に真面目に取り組んでいる子なんです。だから野球が上達する。道具を大切にしているからではないと思うんです。だから「道具を大切にしてないな。野球に対してまだまだ真剣になっていないんだな」と指導者が感じたら、そのことを伝えてあげたり、真剣に取り組めるように野球の楽しさなんかを教えてあげるのがまず第一なんじゃないのかなと思うんです。「道具を大切にできない奴は野球はうまくならない」なんて半分脅しに聞こえます。
(よく、イチローさんが道具を大切にしている話をされますが、イチローさんなんかは野球に対して真剣に取り組んでいるから結果として道具を大切にしているんだと思います)



挨拶も「バレー部だから挨拶をしないといけない」とか「先生に言われているから」でするくらいならしない方がいいですよ。そうじゃなくて、「挨拶をするとされた相手は気持ち良くなるよね。練習試合に来た人に挨拶するとお互いに少し打ち解けて、一緒に練習を楽しもう!って気持ちになるよね。だから挨拶は大切だよね」みたいな感じで伝えてあげたほうが僕はいいな〜と思います。

やっていることは同じでも意味はかなり違ってくると思うんですよね。
僕は.......。






2012年6月25日月曜日

恐山

「恐山」という本を読みました。著者は青森県恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職の南直哉さんです。4年くらい前にyoutubeで南さんがお話をされている動画を見たのがきっかけでいろいろな本を読んだりしたいます。仏教ということではなく、自分の経験したことをとにかく考えて、自分なりの結論を出していかれるのでそのスタイルがすごいな〜と思ったり、お坊さんなんだけど、お坊さんらしくない感じがおもしろいな〜と思って本なんかを読ませてもらっています。

この本の中でも霊山としの恐山とはどういうものなのだろうか、ということが最初に書かれてあります。霊的なものがいる、いないということではなく恐山とは「魂の行方を決める場所、死者への想いを預ける場所」と書かれてあり.........



なんて、この本の内容をまとめようとしていましたが、やめました。まとまりません。無理でした。でも、読みながら、なんだかすっきりしていったんです。なのでこの本の中の文章を少しだけ紹介して終わります。


「死後の世界や霊魂のことは私には分かりません。しかし、死者がその存在を消滅させないことは知っています。死者は彼を想う人の、その想いの中に厳然と存在します。それは霊魂や幽霊どころではない、時には生きている人間よりリアルに存在するのです。ならば、その死者を想う自らの気持ちを美しいものとすることが、何よりの供養ではないでしょうか。今は悲しみと後悔の中であっても、いつの日か懐かしく優しい気持ちで、故人の一番幸福であった頃の姿を想い出せることが、私はとても大切なことだと思うわけです」




「生のリアリティの根本にあるのは他者との関係性です。他者との関係性が軽くなってしまえば、生きている人間の存在感も軽くなる。他者に強い思い入れもなければ、他者から得るものも当然少なくなってきます。それは死者とて同じこと。存在感が希薄になりつつある生者に、死者を想い出す余裕はありません。葬式に対する意識が薄くなるのも当然です」






誰かを思う気持ち、思いやる気持ちという他者に向けた思いというものがこれから、いやずっと今まで大切なことだったんでしょうが、どうしてもその気持ちが薄くなってきているのが今なのかもしれません。
これは子どもに関わる人は特に意識しておかなければいけないなと読みながら、この文章を書きながら強く思いました。


2012年6月23日土曜日

検定

先週、「語彙・読解力検定」なるものを受けてきました。出題範囲の広さに気がついてからというもの「お〜これはあまくみてたな」と焦ったりしましたが、とにかく検定に向けての勉強期間は自分にとって、いい時間になりました。実際に検定を受けてみて、「これは昨日、今日勉強したからってどうこうなるもんじゃないぞ」というのを思い知らされましたが、それでもいい機会になりました。まだ、結果はでてないんですがね笑


翌日の朝日新聞に検定の写真が載っていました。ちゃっかり写っていました〜

あっ、検定後に松江の町をぶらぶらしてみました。楽しい、かわいい景色がありました。


2012年6月12日火曜日

そういう気持ちでいたいんだな〜

「社会はそういうもの(厳しい)だ」とか「辛い経験を経てこそ、大人として社会人として立派になるんだ」という言葉ってよく耳にします。僕なんかも結構言ってたりします。
この言葉、間違ってはいないのかもしれませんが、なんだか嫌だな〜と思うんです。


社会って「厳しい」ということが前提なのかな?大人になったり、社会にでるって辛いことって決まってるのかな?
なんだか、それを決めちゃうと他人に対して(例えば、若い人たちとか)厳しく、辛く接していいんだということを肯定している気がしてならないんです。「自分たちもそうして大きくなったんだ!」とかなんとか言って。


それはやっぱり、気持ちいいものではないですよ。「社会って厳しい」じゃなくて「社会って楽しい」とか「大人って辛いんだよ」じゃなくて「大人って意外と楽しいんだよ」と言っていった方がいいですよ。


その中できっと辛いことや悲しいこともあるんでしょうが、楽しいということがベースにあるかないかではその見方も違ってくる気がします。

だって、そうじゃないと、きっとこれからも「社会は厳しいんだ」って言って、他人に対して厳しく当たっちゃうでしょ。
そういうことを言う人達がきっと社会を厳しくしているんだよ。きっと。

2012年6月11日月曜日

もうぼさんせん もんぜんのこぞう

ちょっと今、いろいろな言葉に触れる時間があるのですが、そのなかでいいな〜と思う言葉があったので簡単に紹介してみますね。

それは「孟母三遷」という言葉と「門前の小僧習わぬ経を読む」というものです。

「孟母三遷」とは、孟子の母が孟子を育てた時の話からきているようで、最初お墓の近くに住んでいたのですが、しばらくすると孟子が葬式の真似事を始めたそうなんです。これは、まずいと思って、次は市場の近くに引っ越すのですが、今度は孟子が商人の真似事を始めてしまったのです。
これも、まずいと思い次は学問所(学校)の近くに引っ越します。そうすると孟子は学生達の礼儀作法を真似たりして、やがて学問を志すようになったというお話なんです。


次の「門前の小僧習わぬ経を読む」の意味はお寺の近くに住んでいる子どもたちは、毎日のようにお寺のお経が聞こえてくるので、習ってもいないのにお経を知っているというお話からきた言葉です。


この二つの言葉とも意味としては「子どもは周囲の環境の影響を受けやすいので、子どもの教育には環境(選び)が大切なんだ」ということになります。良い環境でも、悪い環境でも子どもたちは影響を受けてしまうんですよね。

大切にしたい言葉です。


2012年6月8日金曜日

なんだか、ぼんやりと

何を大切にして、どこを向いているのかということが大切なんじゃないかなと思うんです。


お弁当だって、そりゃ見た目に鮮やかなものだったりすると目をひきます。「うわ~すごいね」なんて言われたりもします。

でも、周りから関心されたいだとか、誰に見られても恥ずかしくないようなということを一番大切にしてるお弁当ってなんだか寂しいですよね。

それよりも、「あの人は小松菜が好きだから、小松を入れておこう」とか「最近、疲れているみたいだから体に負担のかからない食材をつかって.....」みたいな気持ちで作るお弁当の方がずっと嬉しくて、ステキなものになるんじゃないでしょうか。

その気持ちは周りの人には見えにくいものです。でも、一番その気持ちを伝えたい人にはしっかり伝わっているはずです。

そんな感じでいいんじゃないのかなと。

なにもそんな気持ちで作っていないお弁当なんて絶対にダメだ!!なんてことが言いたいわけじゃないですよ。時間のないなかでいつも、いつもお弁当を作ってくれる親のありがたさは僕も十分に感じています。   

あくまでも例えです笑




そんな風にいろいろなことが本当に大切にするべきところに向いていくと僕たちの言葉や動きがどんどん変わっていくのかなと思ったんです。

それを自信とも言うのかな?

2012年5月29日火曜日

コオイムシとタガメ

一年を通じて、天候や季節に関係なく子ども達と一日を自然や地域の中で過ごす「てくてくの日」という活動を昨年から始めています。
今日はそんなてくてくの日だったのですが、なんと水辺で素敵な生き物と出会いました。
しかもたくさん。
その名もコオイムシ!!(準絶滅危惧種に指定されています)
名前の通り、メスがオスの背中に卵を産み付けます。今日見たコオイムシの中にも背中にたくさん卵を背負ったオスがいました。ですが、結構な鳥肌ものなので写真をアップするのはやめておきます。興味のある方は「コオイムシ」で検索してみてください。すぐに見れますよ笑


このコオイムシによく似た昆虫に「タガメ(写真右)」というものがいます。
僕は小さい頃からこのタガメをどうしても捕まえたいという夢を持っていました。このタガメ、絶滅危惧種Ⅱ類にも指定されているほどなのでなかなか見つけられないんです。

何度も探しに出かけたのですが、見つからない。

そして、そのまま大人になっていたのですが、今日そのタガメによく似たコオイムシに出会ったことで何だか「タガメ」に出会ったような感覚になり、感動してしまったんです。本当に嬉しかった。



いつか出会えるといいな~タガメにも。

2012年5月25日金曜日

bekou

GWに神戸へ行ってきました。いろいろな所を巡ってきました。
異人館では館内よりも町並みに目が行ってしまいましたね〜坂があったり、路地があったり......なんだか建物がたくさんあって、道が迷路のようになっていて、その空間に自分がいるというのが心地良いんですよね〜素敵な場所でした。




























後はどうしても行きたかったAppleStore......梅田まで行っちゃいました.....

そして最終日には「神戸市立青少年科学館」へ。ここも行ってみたかったんです。子ども達に混じって大人二人も大興奮でいろいろ試したり、見たりできました。不思議なもので、科学といっても、それぞれに興味のある分野が違うというのはおもしろいなと思いました。


キュリー先生のお言葉もささりましたな〜



2012年5月13日日曜日

その子の世界を受けとめる余裕

日本赤ちゃん学会理事長、同志社大学赤ちゃん学研究センター教授の小西行郎先生のお話を聞くことができました。以前から著書も読んでいて、是非とも直接お話を聞きたかった方なのでとても良い時間を過ごすことができました。
前半は赤ちゃんの力についてのお話でした。心はいつできるのか、それは胎児の時期にはないのではないかというお話でした。僕も漠然と心とは意識だと感じていたので、その話はすっと自分の中に入ってきました。
その中でも「赤ちゃんというのは自ら動いて、触って、見て、聞いて、行動を変える。その輪の中で認知性や社会性を獲得する。赤ちゃんは自ら育つ力を持っているので、なにかおしえなきゃいけないとかと言って、その学習の邪魔をしないでほしい。てめぇでやってんだから、手だすな」というお話がありました。
本当にそうなんですよね。大人がこの学習の芽をたくさん摘んでしまっていることはよくあるんだと思います。「それは触ってはだめ」とか「そっちに行っちゃだめ」と言って、子どもが学習するのを止めている。そして、「これを勉強しなさい」、「こうした方がいい」ということが教育だと思ってどんどん教え込んでいくんですよね。他にも前半では心の芽生えの時期や胎児期の親はもっと楽にしていればいいというお話がありました。まだまだ咀嚼できませんが納得するお話でした。

後半は発達障害についてのお話でした。
「発達障害の子どもたちは同じ世界に住んでいると思っているから今の間違った指導があるんです。ところが住む世界が違うと思ったら今の指導は成り立たない。そこから入っていなかいとダメなんです。そして、その世界を受けとめてあげるしかない。本人はものすごいしんどいです」といったお話や
「多様性というわりには今の世の中は多様性を許さない。おっちょこちょいとかあまのじゃくとか慌てん坊という言葉がなくなった。発達障害という言葉が入ってきてレッテルをはりだした。こだわりも悪い言葉になっているが、日本の伝統芸能はこどわりだらけ。ずっと漆を塗ったりなんてこだわりがないとできない。以前はこだわりはいいことだと言われていたのに、今では悪いと言われる。保育士や教師や母親は子どもの気になることばかり探し出す。明らかに発達障害は増えすぎる、こんなにいるはずがない。もっと子どものいいところを見ていこうよ」がありました。
発達障害の子の関わり方もありますが、これはすべての子どもに関わることなんだと思います。どんな子にも個々にこだわりや興味、関心は違います。それをそれでいいんだと認めていくのが大人の関わり方のはずなのに、少しでも周りと違うと排除しようとする。発達障害の子をつくっているのはその子に関わる大人なんですよね。これを理解しないとどんどんそういう子が増えていきます。障害があろうがなかろうが、その子の考えていること、その子の世界を理解しようとしない大人の関わりは危険だし、罪深いのではないでしょうか。
今回のお話を聞いて、今自分たちが考えていることは間違いではないんだと思えることができました。しかし、もっと考えを深めないといけないことはありますし、その考えをどう直接の子どもとの関わりとしていくのかも考えて、実際によりよい方法を試していかなければなりません。


最後に先生に質問をしたのですが、自分もこだわりが強いというようなことも交えて質問させてもらいました。その返答の中で「あなたも僕も全然変わってないから。僕もこだわりは強いので、いいんちゃいますか。だからずっとこだわってください。それは問題じゃないよ」という言葉をかけていただきました。小西先生の懐に広さ、余裕を感じました。

2012年5月12日土曜日

全体を考える

「環境を知るとはどういうことか〜流域思考のすすめ/養老孟司 岸由二」という本を読みました。
河川事業のあり方やある地域の保全活動の様子を具体的にお話している本なのですが、最終的には教育の方にもつながっていき、とてもおもしろい本でした。ただ、読むのには少し時間がかかってしまいました。
その中で「今の防災設備には見通しがあるわけではなく、整備技術だけの問題になっている。50ミリの降雨対応だったらこのくらいの土手を作ればいいと計算して、終わりです。でも、そんな対応はお天道様や積乱雲には関係ない。林業も同じです。5年後、10年後の見通しが立った計画がなされてない。わずかな補助金を貰うための間伐のための間伐になっている」




これって教育や保育でも気をつけないといけないことだなと思いました。その場しのぎで子どもたちと関わっていくことは将来の子どものたちのことを考えていないということですよね。もっと、もっと長いスパンで子どもたちを見なければいけなし、その方が自然なのにどこか今はその感覚がないのかなと思うことがあります。今こう関わることで、将来はこうなってほしいんだという関わり方をもっとみんなが考えていけるといいのかなと思います。


そして、最後に養老先生は「自然とは解である」と話しています。
「子どもが自然を見ながら育つということは、その「解を」見ながら育つということです。知らず知らずに、自然の中の複雑な問題に関する答を絶えず、見ながら育つということです.....僕が一番、いい例としてあげるのが葉っぱです。一本の木に葉っぱがついている。思い思いの方向についているように見える。でも、きちんと見ていくと木によって葉のつきかたに規則があることが分かる。もっと追求すると太陽光を最大限受けられるような配列になっているはずだと気付く。さらに太陽が動いていることにも気付く。つまり、一本の木が全ての葉っぱを使って最大限の日照を受けようとした時に、葉の配列をどうするかという問題の解が、今見ている葉のつき方であることがわかる。これに最初から、方程式をたて、コンピュータをつかって問題を解こうとしたら、解けるかどうかわかりません。でも、植物を実際に見たらそこに解が出ているのです」


この文章を読んで、なんだか安心しました。でも、これは大人が子どもに伝えてはあまり意味がないことですよね。大人が「見て、見て!この木の葉っぱを見て、これはね〜」なんてことではなく、それを子ども自身が発見し、考え、自分の中の大発見になることが大切なんだと思います。
最近は自然について考えることが増えてきています。それは、とても自分にとって楽しいことです。

2012年5月10日木曜日

ぼんやりと

「いや、まてよ。こういう場合はどうしたらいいんだ。こうしたら〜いやいや、そうじゃない!なら、こうなら〜いや、それも違う!」
そんな自分の中の迷いがいろいろなことを「立ち止まらせます」
別に大したことじゃないんです。偉そうに言ってますが、そんな偉いことをしている訳ではありません。
でも、この迷い?葛藤?立ち止まり?は何をするにつれても結構ついてまわってきます。経験なんかを重ねて行くといろいろなことへの対応もさほど悩まずに、的確な行動ができるようになっていくのかもしれませんが、それを理由にしたくない。だから考えるんです。迷うんです。で、何もできないで終わっちゃう。

何度も言いますが、なにかデカいことをやろう!なんて思っているわけではありません。まだまだ何も分からない僕には日々こんなことだらけです。何がいいのか、どうするのがいいのか、これだ!と確信を持てる行動ができる訳ではありません。
でも、「みんながやっている」からとか「前からそうだから」なんて理由で対応したくはないんです。
そんな対応って案外、無意識に結構やっちゃうんですけどね。だって、その方が楽ですから。それでも、何かの拍子に「ん?なんか違うんじゃないのかな?」という思いが生じる。

その思いを抱えるから、立ち止まる。これ、自分の中の「思考」という部分だけではなくて「身体」もそんな感じになっちゃうんですよね。
ん〜つまり、動けなくなるんです。身体も実際に立ち止まってる。入ってきた情報を整理して行動として出す作業までにとんでもなく時間がかかる時があるんです。そんな時は実際に立ち止まっている。と思えば入ってきて、直ぐに出せる時もあるんですが、そんな時は大抵、その場面や思考を経験済みだったりします。って、これでは結局「経験」が全てじゃないか。と言っているようですが、そうでもない。そこへは逃げ込みたくないんです。


だから立ち止まるし、心の中がもの凄くモヤモヤして、「どうしたらいい?どうする?」となっちゃう。もちろん考えすぎないで「動く」ことの大切さも分かります。動いて失敗して、そこから学ぶということも大切だと思います。だからこそ、この両方をバランス良くやっていきたいなとも思ってます。

そろそろ、そんなことも意識してやっていかないと、いつまでも甘えてばかりになりそうで。


2012年4月30日月曜日

講演会

4月29日に保育園で森のようちえん全国ネットワーク委員長でもある内田幸一さんの講演会がありました。
内田先生が森のようちえんで実践されてきたことは全ての保育、子どもと関わる大人のあり方でもあるんですよね。
例えば「森の中に行けば、制限があまりないんですよ。自然が素晴らしいから出かけているんじゃなくて、できるだけ制限のない所に出かけているんです。だから、もちろん制限があるとこに行けば、その制限やルールは子どもたちに伝えなければならない」というお話がありました。

制限がないということは「あれは、だめ」とか「それはしてはいけない」って大人が言わなくてもいいということですよね。ということは子どもたちが自らの意志で活動ができるということで、制限のない所では子どもたちは主体的に自発的に活動できるということだと思うんです。でも、これって自然じゃなくても普段の保育の中でも十分に意識できることだし、意識しなければいけないことですよね。そして、制限がある場合にはそれを伝えなければいけないということも大切なことなんだと思います。

他にも「全国の森のようちえん、保育園の活動の内容は様々でそれぞれに思いがある。それはそれでいいんです。そのことを子どもにも伝えてあげなければいけない。人はそれぞれに考えていることが違うんです。対立的な関係は自分と考え方が違う人がいれば、その人をダメだと決めつけたり、排除したりしようとする。そういう子どもを育てたいですか?違う考えの人でもその人を価値ある人間だと思えるような子どもたちを育てようとしている...」


これってまずは大人が見本を見せなければいけないんですよね。大人同士の関係で考えの違う人を排除しようとすることってよくあることじゃないかと思います。その姿を子どもたちに見せてしまうことってとても危険なことですよね。ましてやそんな気持ちで子どもと接しいると子どもに対してもそんな関わり方をしてしまうのではないでしょうか。
よく「気になる子」という言葉を耳にしますが、この「気になる子」ってなんなんでしょうか。みんなとは違う子ですか?言うことを聞いてくれない子ですか?それは言っているあなた自身が勝手に気になる子にしているだけのような気がするんです。まずは大人の姿勢からですよね。



そして、最後は内田先生を囲んでの食事会でした。たくさんお話できて、いろいろな話も聞けたので、楽し過ぎてお酒を飲み過ぎてしまいました。最初にお話したのは昨年の10月でしたが、まさか半年後にこんな形でまたお会いできるとは思いもよりませんでした。本当に人のつながりって不思議です。素敵な時間でした。

2012年4月19日木曜日

2012年4月11日水曜日

決意

自分の未熟さを感じることなんて日々、あることなんですが、やっぱりそれを感じるとその都度、落ち込みます。「自分ってなんて考えが浅いんだろう」とか「もういいから喋んなよ自分!」と思ってしまいます。気丈に見えて結構落ち込んでいるんですよね。

でも、それも前向きに考えようかなと思っています。「自分ってまだまだだな」と感じることができたんならここから改善だってできるはず!いや、むしろここからが大切なんだと。なんだか、いつもこんなことを言っている気がします。まだまだ、身に付いていなんですんね。でも、身に付くように意識しないといけません。

本当に僕は考えが浅くて、適当で、ちゃらんぽらんしているんです。自分でもそんな姿は嫌なんですね。そんな自分のことは自分でも分かっているんですが、そう簡単には修正できません。もう、これは日々の意識の積み重ねしかないのかもしれません。とにかく、毎日意識して少しでも今の自分からレベルアップした自分になれる努力をします。

2012年4月8日日曜日

kaiwa

人に思いを伝えることの難しさを改めて感じました。なかなか上手くはいきませんね。分かりやすい言葉で簡潔に、でもしっかりとそこにある真意や思いを伝える......なんて思ってはいますが、そう簡単にできる訳がないですね。

僕はぐだぐたと同じことを何度も話してしまう癖があるし、言っていることの意味が分かりにくいということをよく言われるので、もっと相手のことを考えて話をしないといけないなと意識はしているのですが.....まだまだですね。もう、それは普段の会話から意識しようと思っているのですが......まだまだなんです。

自分の話し方の課題も感じたのですが、同時にやっぱり会話って相手があって成立するんだなということも改めて感じたんですね。自分の思いを伝えることも大切なんですが、相手の方が思っていることをいかにして引き出すのか、そしてその話の内容を理解して、どう自分の言葉をつなげていくのか。話をしている相手が集団だった場合にはまた違ったつなげ方も考えなきゃいけない。でも、それがなんとなく上手くいって会話が成立する時ってすごく心地いい雰囲気が生まれるような気がするんです。


そうなった時って単純に楽しいですよね。それって話している内容はあまり関係ないのかなと思ったんです。くだらない話、面白い話、真面目な話、悲しい話、どんな内容の話であろうと自分たちの中で会話が成立したと思うと「心地よく」なる気がします。

何が言いたいのか上手く説明できないのですが、とにかく誰かと話をする時にお互いに心地よくなれる会話というものを大切にしたいなと感じたんです。

2012年4月6日金曜日

5月6月末

所ジョージさんの歌に「5月6月末」というものがあります。これとってもいいので、歌詞をここで紹介してみます。動画はこちらです→5月6月末in世田谷ベース


5月6月末

『つづく雨に頬づえ突いて 実るエンドウ豆に 5月も終わり
知らず生えたトマトの茎に 添え木立てなければと6月

空は虹をかけて 明日へと希望とつなぐような
雨上がりだ 顔ふき終わる頃

つづく雨が心の中で 君に何をすればと ひと息つかせて
知らず過ぎた幸せかぞえ 付け加えられもせず7月

雲は白く浮かび ひとつぐらいはいかがでしょと
青い空だ 顔ふき終わる頃

つづく雨はウソのように 今日もまた晴れたネと 早起きですネ
いつも通り目を覚まして 静かながら全てを感じて

今は朝を 僕のものだと思える満足が
インゲン豆は も少し育ってから』

ものすごく優しい情景が浮かんでくるんですよね。人の気持ちを見事に表していますよね。なんだか、幸せのヒントがたくさん詰まっていそうな歌です。

勝手な解釈ですが最後の『インゲン豆は も少し育ってから」の部分。1番では、知らずに生えていたトマトの茎に気がつけなかったのに、3番ではインゲン豆の様子を余裕を持って見ている人がいるように感じます。1番から3番への人の気持ちの移りかわりがそんな所からも感じられるような気がします。

好きな歌です。






2012年3月25日日曜日

卒園式

3月24日に卒園式がありました。卒園式でのみんなの表情、とっても素晴らしいものでした。希望に満ちているというか、楽しくてしかたないというか、自信に満ちているというか、とにかく良い表情をしていたんです。

それは卒園式だけの姿ではなく、日々の生活の時からそうでした。毎日、子どもたちが主体的になっていろいろなことを楽しんでいました。本当に毎日イキイキしていたんです。
「これをやってみたい!」、「こうがいいんじゃない!」、「あそこに行ってあれをしてみようよ」と自分たちで考え、提案して、どんどん実行していました。その姿は楽しくてしかたがない!という姿そのものでした。


日々の生活の豊さがあの卒園式でのみんなの表情にあらわれたんだと確信しています。

みんな、おめでとう!楽しい時間をありがとう。

2012年3月24日土曜日

センスのない人間

空間作りだとか、雰囲気作りということを意識していきたいなと思っています。実はこういうのとっても苦手なんです。空間作りとか、雰囲気作りが上手い人って、簡単に言うと「おしゃれ」や「センスがいい」みたいなことだと思うんですけど、僕はまあ〜それは、それはセンスがないんです。


もう、分かってますし、周りからもよく「センスがないよね」みたいなことを言われているのでかなり自覚はしています。でも、諦めたくはないんです。なんとかして、その苦手分野を少しでも改善したいんです。

空間や、雰囲気が良いとやっぱり人って落ち着くと思うんです。その場所の雰囲気、そこにいる人、といったいろいろなことを踏まえて居心地のいい雰囲気を作れたら素敵なんじゃないかなと。

雰囲気って軽視してはいけないような気がするんです。その雰囲気から安心感だったり、信頼感だったりが生み出される気がします。それは人が生み出す雰囲気であったり、空間が生み出す雰囲気だったりするんでしょうね。

そんなことに意識を向けていきたいなと思っています。と言ってもなかなかできるものではないのは分かっています。

「センスのない」人間なので.....


2012年3月19日月曜日

かがくのじかん

先日、年長さんにとっては最後の「かがくのじかん」を行いました。昨年の4月から月一回というペースで一年間取り組んできた、かがくのじかん(このかがくのじかんに関する思いはこちらへ科学 カガク かがく)。


磁石や紙コップ、水や油いろいろな物を使って表面張力だとか圧力だとか二酸化炭素どとかという科学に触れてきました。その中でも子どもたちがこの「かがくのじかん」を毎回、楽しみにしていてくれたこと、実験を通して不思議な現象を見た時の子どもたちの表情を思い出すとこちらも嬉しくなります。実験中、本当に多くの「なんで?」、「どうしてこうなるの?」、「あっ分かった!◯◯だからじゃない?」という声に出会いました。子どもたちの表情からはその不思議に目を奪われている様子や「どうしてそうなるの?」ということを考えようとしている感情が伝わってくるようでした。


その中でも、印象的なエピソードがいくつかあります。まず、一つはある女の子が園庭の炉で火を焚いている時に言った言葉です。杉の葉が燃えて、一部分が白く灰になったのを見て(白く灰になった部分が雪のように見えて不思議な姿になるんです)、「すごい!あっ!これってかがくになるんじゃない?」とつぶやいたのです。彼女の中では不思議なこと=科学という思いになったのかもしれませんが、科学は受け入れにくいなんだか難しいものではないんだよというメッセージを今後も彼女が感じてくれるといいなとその時に思いました。


他にもこんなことも。この「かがくのじかん」は僕が博士に変身して(白衣を着て、眼鏡をかけて)子どもたちの前に登場します。子どもたちは博士と僕は違う人物だと思ってくれています(よく、疑われますが笑)。ですが僕がイマイチなりきれていなかった時があり、実験後の片付けを博士ではなく、僕が行っていたのです。ややこしいですが、博士が帰った後に僕が登場して片付けを行っていたのです。僕としては全部自分で行っている意識なんですが、子どもたちからすると博士と僕は違う人物、なのになぜ、博士の実験の片付けを僕がやっているんだということになったんです。そうなると「博士はずるい」とか「自分で片付けしないといけないんだよ」という声が聞かれて、ある女の子なんかは「博士のことあまり好きじゃない」という子まで。

大人って子どものモデルなんですよね。そんな大人がこんなことではいけないなと博士になりきれていなかった自分、博士という人を尊重していなかった自分に気がついたんです。それからは博士になりきることを意識しています。

まだまだ手探りのこの取り組み、今後も続けていくつもりです。続けることで見えてくるものってたくさんあると思うんです。でも、ただ続けるだけじゃなくて、しっかり考えていきたいと思っています。まだまだ何も分かってはいないので。

2012年3月11日日曜日

サヒメルへ

友人と男二人で三瓶自然館サヒメルへ行ってきました。子どもの頃に行ったきり久々の自然館でしたが、十分楽しめました。

子どもの頃とはまた違う見方で虫や動物の剥製や標本に興奮してしまいました。
他にも企画展として「人の目・虫の目・機械の目〜五感の不思議〜」というものもやっていていろいろな装置で五感の不思議を感じられるコーナーもありました。

目の錯覚の展示物もその一部です。このてんとう虫たちがクルクル動きます。こういう絵がが廊下いっぱいに展示してありました。
下の食物連鎖の図には驚きました。小さな鳥一羽(なんか鳥羽一郎みたいになりましたね笑)が生きていくためにはクモが12万匹、昆虫が24万匹、草が195万株も必要にらしいんです。このバランスで動植物が生きているということはひとつバランスを崩せば全ての生態系に影響があるというのが想像できますよね。
それにしてもやっぱりこの地球にはものすごい数の昆虫がいるんだな〜と。
他にも三瓶山の歴史を感じれるコーナーがあったり、鷹の爪のキャラクターがブラックホールについて簡単に解説している短編映画が見れたり(最近、宇宙についての本を読んだばかりなので特におもしろかったな〜)、我らが柳生博先生がナレーションをするものもあったりと、サヒメルを満喫しました。


サンベバーガーもいただきました。これ、絶品です。いい休日でした。


2012年3月9日金曜日

鮭の放流会

保育所の子どもたちと一緒に鮭の放流会に参加しました。地域の川で行われる行事で今年で6回目の放流会です。

なんとその川では昨年、鮭の溯上が目撃されたみたいなんです。今後はその溯上してきた鮭を捕獲して人工授精への取り組みも行われるようです。

今回、放流した鮭は5000匹(例年の半分らしいです)。そのうち川に戻ってくるのは10匹前後だそうです。

ちなみに放流した鮭の種類は「しろざけ」というそうです。小さい体ではありましたが本当にきれいな色をしていました。


魚が好きな自分としていろいろな話も聞けて、きれいな魚も見れてなんだか素敵な体験になりました。

ちなみに鮭の稚魚は1匹20円だそうですよ。

2012年3月6日火曜日

悩んで悩んで

この一年は、いや今もなんですが、いろいろと思い悩むことが多い気がします。どうしても隣の芝生を眺めてしまうんですよね。そんなのを眺めてたってどうにもならないのに眺めてしまう。
頭では分かっているつもるでも、そう思うということは分かってないんでしょうね。

それは自分自身にももどかしさがあったり、力の無さを感じるということもあるのですが、それだけじゃないのも確かで。

そんなことを考える前にまずは自分を高めるということが一番大切なのは分かっているんですが、ついそれを忘れてしまうことがある。

そんなことの繰り返しです。
だったら、とことん葛藤して、とことん悩んでみようかなと。その中でできることは山ほどあるし、すべきことも山ほどある。現実に丁寧に向き合いながらも、どこかで「いいな〜」、「やっぱり、すごいな〜」と思っていようではないか。

だってすごいのは事実なんだし、でもそれだけで終わってはいけないんですよね。自分にもできることはあるわけだし、そこを見ないで自分がすべきことを丁寧にしていかないといけない。そのあたりはとても前向きです。けして消極的な訳ではないんです。そこから学ぶこともたくさんあるはずです。

なにが言いたいのかさっぱり分からないと思いますが、あまりそんな思いを断ち切らずに抱えていってみようかなと思ったんです。
伝わりませんよね笑

2012年2月25日土曜日

おもてなしクッキング

先日、保育所で「おもてなしクッキング」というものがありました。保育所では3〜5歳児までが年間を通してクッキングを行っています。
そのクッキングでは子ども一人ひとりの発達や興味に応じた活動になるように選択を取り入れたりと様々な工夫をしています。
その集大成として年長さんが毎年、この時期に昼食作りを自分たちで行い、他の子たちにふるまうという「おもてなしクッキング」という活動があります。

かなり簡単に説明してしまいましたが、その「おもてなしクッキング」の様子を年長の担任の先生に原稿にしてもらっていました。その内容がまさに子どもたちの思いが詰まった素敵な文章だったのでここで紹介させていただくことにします。

あっ、ちゃんとご本人にも許可はとってありますよ。




『おもてなしクッキングをしたよ!』~自発的活動から見えた子どもの姿~

 【生きる力をつけよう!
 今回のクッキングは毎月取り組んできたクッキングの集大成。“火を使うこと”“包丁を使うこと”が上手になった年長さんが、その力を十分に発揮してみんなをもてなします。


【どんなふうにしようかな?】
大人が「こうしなさい!」と言うのではなく、子ども達自身がどんなふうにもてなすかを考えます。
「レストランみたいにしたい!」「いいね。チケットもいるよね?」「おもちゃ付きのごはんなんてどう?」など、話す子ども達の目はキラキラ。それはきっと“やらされてる”のではなく、子ども達自らが“やろう”としていたからでしょう。


【みんなにないしょで!】
準備開始のその時「みんなにばれんようにしよう!」の声。窓に目隠しカーテンをして“秘密の準備”は実行されました。ただクッキングをするのではなく、“みんなをあっと驚かせたい”“もっともっと喜ばせたい”という子ども達の思いがとても伝わってきました。


【みんながよろこんでくれてうれしい!】
「みんな喜んでくれるかなぁ?」と、おにぎりとお味噌汁を作ります。そして、開店。一人ひとりの子がお客さんにはりきって昼食をふるまいます。最後、子ども達がみんなに言った言葉は「今日は来てくれてありがとう!」でした。

みんなが「おいしいよ!」と喜んで食べてくれたことが嬉しかったという思いだけでなく、自分達の思いを受け止めて喜んでくれたみんなへの“ありがとう”の気持ち、まさにおもてなしの心を感じた瞬間でした。
子ども達は自発的な活動の中から、こうして大切なことを学んでいくんだなと実感したおもてなしクッキングでした。


当日、子どもたちの姿は本当にイキイキしていました。みんなが誰かのために考え、誰かのために行動していました。場の雰囲気もとても良かったんです。年長さんの頑張りに対してを言葉はもちろんですが、みんなの空気が「ありがとう」と言っているようでした。大人も子どももここから楽しんで、感謝した会でした。

誰かのことを思いながら、考え、行動するってとても大切なことだと思います。それが集団で過ごしている意味でもあり、大切なことのひとつだと感じます。

素敵な会でした。みんな、ありがとう。


2012年2月20日月曜日

名越セミナー

大雪の中、松江で行われた精神科医 名越康文先生のセミナーに参加してきました。何冊か著書を読んだり、ラジオを聴いたり、テレビで見かけたりしていたので名越先生に実際にお会いできて少し感動しました。
直接、お話をした訳ではないんですが、名越先生が出す雰囲気をすごく感じました。これってやっぱり実際に会ってみないと分からないものだと思うんです。そして、その雰囲気がいいんですよね。人として魅力的だし、信用のできる人っていう雰囲気、匂いがでているんです。
それを感じれただけでも意味のある時間でした。


セミナーの内容も名越先生がかいつまんで話をしますと言われた通りに進んでいきましたが、それでもおもしろかった。ご自身で今までで一番、言いたい事が詰まっていますと話していた最新刊を読まずにはいられなくなる話の内容でした(早速、注文しました)。


前半はうつ病についてのお話でした。うつ病の人は常に妄想をしているということ。これ、自動思考とも言うらしいのですが、常にネガティブな妄想を膨らまし続けている、だから不登校の子も実は布団の中で登校しているんだということになるんです。

「あぁ〜今頃大嫌いな数学の授業か...」なんてな感じで布団の中でも妄想している。そうやってムダな事を考えてどんどんエネルギーを消費していっている。この感覚、なにもうつ病の人だけではなく、僕らにも当てはまりますよね。


この感情って怒りにも通じるんだそうです。「授業なんてなくなればいいのに、学校なんてなくなってしまえ」確かに、怒りの感情ですよね。他にも軽蔑なんかも怒りの一つだし、ちょっとした「イラッ」とか「ムッ!」という感情も同然怒りだと。

そうなると僕たちは毎日そんな怒りの感情を抱いて、どんどんエネルギーを消費していることになりますよね。

怒りというエネルギーはネガティブな感情しか生みませんよね。その怒りの感情を上手くコントロールする術も少し教えていただきました。

まだまだ、ここでは書ききれませんが、とてもおもしろ話の連続でした。これから届く本を読んだ時に今回のセミナーの時の話とどのようにリンクしていくのか楽しみです。

そしてセミナー後にはおいしいパン屋さんでお腹も満たしました。

2012年2月11日土曜日

くにびきマラソン

出雲で行われたくにびきマラソンに職場の上司、先輩とともに参加してきました。
僕以外の2人は制限時間である2時間をきる好タイムで見事完走されました。
僕は制限時間はクリア出来ずに「2時間26分54秒」という結果でした。15㎞地点まではいいペースだったのですが、そこから失速してしまい、ほとんど歩いてのゴールとなってしまいました。制限時間を超えると後ろから車がやってきて、時間を計測しているタグを回収されるんです。そして、沿道のスタッフさん達も足早に立ち去りだすんです。そんな中をゴールに向う景色は猛烈な寂しさをおびているんですよね。
しかし、後悔はしていません。自分なりに持てる力は出し切ったと思っています。とてもいい時間でした。数ヶ月前には想像もしていなかった舞台です。


それと職場の方達が応援に駆けつけてくれました。本当に嬉しかった。危うく涙腺が崩壊しそうになりました。僕がゴールするのが遅かったために出会えなかった人もいましたが、気持ちは受け取りました。ありがとうございました。

2012年2月9日木曜日

集団って

最初に言わせてください。今回は、いや今回も?裏付けのない、無責任な思いつきを綴っていこうと思いますので、ご了承ください。

この間、二人で散歩をしているおばあちゃん達を見て、「集団」というものについて考えました。
そのおばあちゃん達のやりとりを聞いた訳ではないのですが、少ない経験上、おばあちゃんが二人いると大抵は一人が気の強いぐいぐい人を引っぱるようなおばあちゃんで、もう一人はそのおばあちゃんの言うことを横で優しく頷きながら聞いているような優しそうなおばあちゃんじゃないのかなと思うんです。



これ、別におばあちゃんだけに当てはまることではないと思っています。その傾向の強弱はあるにしても、だいたい仲の良い二人組とかってこんな感じの関係だったりしませんか?
もちろん、全てではありませんが。



引き続いておばあちゃんを例えにだしますが、優しそうなおばあちゃんも違うおばあちゃんとペアになると立場が逆転することもあるんだろうと思います。
僕たちだって、全ての人に同じ対応をしているわけではありませんよね。会社での自分、恋人といる時の自分、家族といる時にの自分、友達といる時の自分って同じではないと思うんです。



それぞれの関係の中にあった自分に変化しているはずです。だからどんな人間で集団を作ったとしても、誰かが全体を引っぱっていくんだろうし、誰かが何も言わないような黙っている人にもなる(それがいけないという訳ではありませんよ)。

じゃ、黙って物静かな人ばかりを集めて集団を作るとその集団は何もしないただ、静かな集団になるのかといえば、そうではないんだと思います。その中でも、全体を引っぱっていく人がでてくるはずです(アリはこういう性質をもっているようです)。



つまり、何が言いたいのかというと、集団の中の役割を勝手に判断して、ものを見なくてもいいんじゃないのということです。

そこで集まった人同士で何とか解決するんじゃないのということです。

人間はそれができるから、ここまで生き残れてきたはずです。

2012年2月2日木曜日

ムシ2

今、読んでいる本の一つにひたすら大人が虫について語っている本があります。
その大人は養老さんだったり、池田清彦さんなどというおなじみの方々なのですが、この本、とってもおもしろいんです。もう、ぐいぐい読み進めています。

そんな本を読んでいるとやっぱり思い出してしまうんです。自分がひたすら虫ばかり捕まえていた頃を。
それは、それは狂うほど虫に夢中になっていました。大きな石を見つけるとその石を裏返して何かいないかと探していました。だいたいの目当てはハサミムシでしたね。あの細長い胴体にキリッとしたハサミが何とも言えないくらいかっこよかった。カタツムリやダンゴムシ、アリにカナブンもとにかくアホみたいに捕まえていました。

特にカマキリとてんとう虫は大好きで、カマキリなんかは草むらで草と同化していても簡単に見つけていました。もちろん、ものすごく草むらを凝視してはいましたが。本当にたくさん捕まえて、多くの時間、観察しました。


そんなことをしていると幼いながらにいろいろ分かってくるんですよね。この時期にはここにはあの虫はいないな〜とか。何かこの石の裏にいそうなきがするんだよな〜とか。いい草むらだなとか。いろいろなことが直感というか感覚というそういうもので分かるような気がするんです。


これって結構、大切なことなのかなと思います。直感って勘とかと似ているものだと思うんですが、この勘って案外ちゃんとしているものだと思うんです。

直感とか勘って今まで経験してきたことが集約されて最善の方法として出てくるものらしいんです。今までの経験の最高の形が直感だと。そうなるとその感覚を磨くためにはとにかくいろいろな経験をした方がいいんだと思います。
子どもの頃は特にそうかもしれません。自分で試して、考えて、動いたその結果をたくさん貯めておく。子どもってそんなことをたくさん繰り返しながら大人になっていくんだろうなと思ってみたのです。



よく分からないかもしれませんが、なんとなく伝わればいいです笑

2012年1月24日火曜日

障害

先日まで朝日新聞で吃音をもつヒカル君の特集(全8回)が掲載されていました。
吃音を持っていることで、周りからいじめられたり、からかわれたりし、たくさん泣いて、たくさん悩んできたことが記事には書いてありました。


また、ヒカル君は小学校に入学してから言語訓練に通い始めたそうです。
ですが、ある日「訓練」という言葉を辞書で引いた時に訓練の意味(あることを教え、継続的に練習させ、体得させること)に違和感を覚えたそうです。ヒカル君は練習などで吃音を治そうとするのは今の自分を否定されているような気がすると感じ、担当の先生と相談して言語訓練を「ことばの教室」と呼ぶことにしたそうです。
記事の中では、辛い経験をしても、吃音をもつ自分を受け入れようとしてきたヒカル君がいました。

最後にヒカル君は「今はある程度、自分の吃音と向き合い、受け入れられていると思う」と語っています。受け入れるってどういうこと?と問われると、「自分を好きになることかな」とこたえています。


時を同じくして、「早期教育と脳 」、「発達障害の子どもを理解する」という小西行郎さんの著書に出会いました。その中で、【私は障害児・者の問題は、彼ら個人の問題ではなく、むしろ周囲にいる私達いわゆる健常者の問題であることを確信したのです。ハンデのある物が努力して変わるより、そうでない健常者が受け入れることの方が容易で安全かもしれません】という文章がありました。

様々な障害を持ち、生活をされている方はたくさんおられます。障害を持った人たちに訓練や治療することで日常生活を送りやすく・・・というような言葉をよく耳にします。障害を持つ人たちが訓練しなければ日常生活が送れないということそのものが何か違うんじゃないんかなとも思っています。小西さんが言われるようにそれよりもまず、障害を持つ人の周りの人間である我々が考え方を変えるべきという言葉にとても納得しました。こんなことを言っている僕も何だか線を引いているようで嫌なのですが。


社会に出るために障害を治す、訓練するという考え方よりも、それを自分自身が受け入れる。社会が受け入れるような方向へ進んでいけばいいなと思いながら読ませていただきました。


ヒカル君の記事や小西さんの本から、まずは自分が持っている障害というものをより、考えるきっかけになりました。一人の人間として、また周囲の人間として、考えることがたくさんありそうです。
まだまだ、何もわかっていません。

(最近ではその子なりの特性、個性ということを考えずに安易に障害という診断をされる子どもが増えていることも小西さんは指摘させておられます。なんだかある枠の中にいればいい子なんだという考え方があるような気がしてなりません。その子、その子をしっかり見守っていくことを忘れてはいけないと思っています。)

繰り返しますが僕はまだまだ何も分かっていません。だからこそ、分かろうとすることを止めたくありません。意識することをつい忘れてしまいそうになる日常を大切に考えて過ごしていきたいと思います。

2012年1月17日火曜日

森のようちえん まるたんぼう

先日、「鳥取県智頭町森のようちえん まるたんぼう」さんの所へ行ってきました。
職場の先輩と3人での楽しいプチ旅行のような旅でした。
まるたんぼうさんの所へは何度かお邪魔しているのですが、冬の時期は初めてだったため、白一色の風景には興奮してしまいました。
 

まるたんぼうのスッタフのみなさんにも温かく迎えられ、自然たっぷりのまるたんぼうを満喫しました。

そして、大人4人による(まるたんぼう対僕たち)雪合戦も白熱しました。激闘は1時間以上にもなりましたが、全く疲れを見せないまるたんぼうチームには驚きました。
我々というと体力、気力ともにボロボロになりました。来年の冬にはリベンジです!
戦いの後のご飯もおいしかったのですが、汗で冷え切った体が震えていて、味わってたべることができませんでした笑
これも、どれもいい思い出です。
まるたんぼうハウスに帰ってからはいろいろな話で盛り上がり、ここでも楽しい時間を過ごすことができました。
いや~今回も本当に気持ちがスッキリ!という感じで、体の中のストレスが全てなくなるような感覚を味わいました。
また、遊びに行きます!



 




2012年1月11日水曜日

ここにいます

なんだか分からないけど、いつも焦っている自分がいます。なんとなくですが、その焦りがあまり意味のないものだということが少し分かってきました。
だから焦るのを止めるように意識しようと思います。

焦るってどういう感情なんでしょうか?

いい意味で自分を中心にしてゆっくり進んでいけば焦らなくなるような気がするんです(僕の場合は)。
自分を中心にできればゆっくり進めるのだと思うので、少し矛盾していますが。


相手を中心に、ん〜中心とまではいかなくても、誰かの存在を異常に意識してしまうとその相手に中心を合わせようとしてしまう。そうするともう、自分のペースじゃないですよね。



だから焦ってしまうんでしょうね。もう、これはおしまいです。もう少し自分に向き合おうと思います。うん、そうします。

年が明けてからそんなことばかり考えていました。少しは整理できたのかな。

2012年1月1日日曜日

2012年

2012年が明けました。今年は辰年。年男なんです。そんな今年、どんな目標で一年過ごそうかと考えていました。いろいろ考え過ぎても仕方がないので直感的に思い浮かんだことを目標にしていこうと思います。



それは「焦らない」ということです。とにかく、様々なことについて焦らないことです。結果を早急に求めてしまったり、プロセスを大切にしなかったりしないことです。



「時期尚早」という言葉が昨年の自分を表す言葉だったように思います。今年はその反省が活かせるようにしたいですね。
加えて、昨年からの目標である「よく考え、実際に行動する」ということも頑張っていきたいと思います。