2012年6月28日木曜日

ずっと気になっていまして。

学生の頃、運動部に所属していた人なら「道具を大切にしなさい」とか「挨拶をしなさい」なんて言われたことがあるのではないでしょうか。僕はこの言葉があまり好きではないんです。
この言葉と一緒に必ずついてくるのが、「道具を大切にしない人間は野球は上達しない」とか「挨拶もできない人間はバレーなんかうまくならない」といったかなり強引な意味の言葉なんですよね。
小学生とか中学生の頃ってわりと素直じゃないですか。だから、大人が言ってくるこういう言葉を信じちゃうんですよね。
「よし、グローブを大切にしよう!そしたら野球がうまくなるぞ!!」、「挨拶をちゃんとしよう!そしたらバレーがうまくなるぞ!!」なんて思っちゃいますよ。



もちろん、道具を大切にすることや挨拶をすることは大切なことだと思います。でも、はっきり言って、道具を大切にしても野球はうまくなりませんし、挨拶をしたからってバレーは上達しないと思います。

で、何が言いたいのかと言いますと、ちゃんと本当の意味を伝えてあげてほしいということなんです。

道具を大切にしてるから野球がうまくなるんじゃなくて、道具を大切に扱う子は野球に対して真剣に真面目に取り組んでいる子なんです。だから野球が上達する。道具を大切にしているからではないと思うんです。だから「道具を大切にしてないな。野球に対してまだまだ真剣になっていないんだな」と指導者が感じたら、そのことを伝えてあげたり、真剣に取り組めるように野球の楽しさなんかを教えてあげるのがまず第一なんじゃないのかなと思うんです。「道具を大切にできない奴は野球はうまくならない」なんて半分脅しに聞こえます。
(よく、イチローさんが道具を大切にしている話をされますが、イチローさんなんかは野球に対して真剣に取り組んでいるから結果として道具を大切にしているんだと思います)



挨拶も「バレー部だから挨拶をしないといけない」とか「先生に言われているから」でするくらいならしない方がいいですよ。そうじゃなくて、「挨拶をするとされた相手は気持ち良くなるよね。練習試合に来た人に挨拶するとお互いに少し打ち解けて、一緒に練習を楽しもう!って気持ちになるよね。だから挨拶は大切だよね」みたいな感じで伝えてあげたほうが僕はいいな〜と思います。

やっていることは同じでも意味はかなり違ってくると思うんですよね。
僕は.......。






2012年6月25日月曜日

恐山

「恐山」という本を読みました。著者は青森県恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職の南直哉さんです。4年くらい前にyoutubeで南さんがお話をされている動画を見たのがきっかけでいろいろな本を読んだりしたいます。仏教ということではなく、自分の経験したことをとにかく考えて、自分なりの結論を出していかれるのでそのスタイルがすごいな〜と思ったり、お坊さんなんだけど、お坊さんらしくない感じがおもしろいな〜と思って本なんかを読ませてもらっています。

この本の中でも霊山としの恐山とはどういうものなのだろうか、ということが最初に書かれてあります。霊的なものがいる、いないということではなく恐山とは「魂の行方を決める場所、死者への想いを預ける場所」と書かれてあり.........



なんて、この本の内容をまとめようとしていましたが、やめました。まとまりません。無理でした。でも、読みながら、なんだかすっきりしていったんです。なのでこの本の中の文章を少しだけ紹介して終わります。


「死後の世界や霊魂のことは私には分かりません。しかし、死者がその存在を消滅させないことは知っています。死者は彼を想う人の、その想いの中に厳然と存在します。それは霊魂や幽霊どころではない、時には生きている人間よりリアルに存在するのです。ならば、その死者を想う自らの気持ちを美しいものとすることが、何よりの供養ではないでしょうか。今は悲しみと後悔の中であっても、いつの日か懐かしく優しい気持ちで、故人の一番幸福であった頃の姿を想い出せることが、私はとても大切なことだと思うわけです」




「生のリアリティの根本にあるのは他者との関係性です。他者との関係性が軽くなってしまえば、生きている人間の存在感も軽くなる。他者に強い思い入れもなければ、他者から得るものも当然少なくなってきます。それは死者とて同じこと。存在感が希薄になりつつある生者に、死者を想い出す余裕はありません。葬式に対する意識が薄くなるのも当然です」






誰かを思う気持ち、思いやる気持ちという他者に向けた思いというものがこれから、いやずっと今まで大切なことだったんでしょうが、どうしてもその気持ちが薄くなってきているのが今なのかもしれません。
これは子どもに関わる人は特に意識しておかなければいけないなと読みながら、この文章を書きながら強く思いました。


2012年6月23日土曜日

検定

先週、「語彙・読解力検定」なるものを受けてきました。出題範囲の広さに気がついてからというもの「お〜これはあまくみてたな」と焦ったりしましたが、とにかく検定に向けての勉強期間は自分にとって、いい時間になりました。実際に検定を受けてみて、「これは昨日、今日勉強したからってどうこうなるもんじゃないぞ」というのを思い知らされましたが、それでもいい機会になりました。まだ、結果はでてないんですがね笑


翌日の朝日新聞に検定の写真が載っていました。ちゃっかり写っていました〜

あっ、検定後に松江の町をぶらぶらしてみました。楽しい、かわいい景色がありました。


2012年6月12日火曜日

そういう気持ちでいたいんだな〜

「社会はそういうもの(厳しい)だ」とか「辛い経験を経てこそ、大人として社会人として立派になるんだ」という言葉ってよく耳にします。僕なんかも結構言ってたりします。
この言葉、間違ってはいないのかもしれませんが、なんだか嫌だな〜と思うんです。


社会って「厳しい」ということが前提なのかな?大人になったり、社会にでるって辛いことって決まってるのかな?
なんだか、それを決めちゃうと他人に対して(例えば、若い人たちとか)厳しく、辛く接していいんだということを肯定している気がしてならないんです。「自分たちもそうして大きくなったんだ!」とかなんとか言って。


それはやっぱり、気持ちいいものではないですよ。「社会って厳しい」じゃなくて「社会って楽しい」とか「大人って辛いんだよ」じゃなくて「大人って意外と楽しいんだよ」と言っていった方がいいですよ。


その中できっと辛いことや悲しいこともあるんでしょうが、楽しいということがベースにあるかないかではその見方も違ってくる気がします。

だって、そうじゃないと、きっとこれからも「社会は厳しいんだ」って言って、他人に対して厳しく当たっちゃうでしょ。
そういうことを言う人達がきっと社会を厳しくしているんだよ。きっと。

2012年6月11日月曜日

もうぼさんせん もんぜんのこぞう

ちょっと今、いろいろな言葉に触れる時間があるのですが、そのなかでいいな〜と思う言葉があったので簡単に紹介してみますね。

それは「孟母三遷」という言葉と「門前の小僧習わぬ経を読む」というものです。

「孟母三遷」とは、孟子の母が孟子を育てた時の話からきているようで、最初お墓の近くに住んでいたのですが、しばらくすると孟子が葬式の真似事を始めたそうなんです。これは、まずいと思って、次は市場の近くに引っ越すのですが、今度は孟子が商人の真似事を始めてしまったのです。
これも、まずいと思い次は学問所(学校)の近くに引っ越します。そうすると孟子は学生達の礼儀作法を真似たりして、やがて学問を志すようになったというお話なんです。


次の「門前の小僧習わぬ経を読む」の意味はお寺の近くに住んでいる子どもたちは、毎日のようにお寺のお経が聞こえてくるので、習ってもいないのにお経を知っているというお話からきた言葉です。


この二つの言葉とも意味としては「子どもは周囲の環境の影響を受けやすいので、子どもの教育には環境(選び)が大切なんだ」ということになります。良い環境でも、悪い環境でも子どもたちは影響を受けてしまうんですよね。

大切にしたい言葉です。


2012年6月8日金曜日

なんだか、ぼんやりと

何を大切にして、どこを向いているのかということが大切なんじゃないかなと思うんです。


お弁当だって、そりゃ見た目に鮮やかなものだったりすると目をひきます。「うわ~すごいね」なんて言われたりもします。

でも、周りから関心されたいだとか、誰に見られても恥ずかしくないようなということを一番大切にしてるお弁当ってなんだか寂しいですよね。

それよりも、「あの人は小松菜が好きだから、小松を入れておこう」とか「最近、疲れているみたいだから体に負担のかからない食材をつかって.....」みたいな気持ちで作るお弁当の方がずっと嬉しくて、ステキなものになるんじゃないでしょうか。

その気持ちは周りの人には見えにくいものです。でも、一番その気持ちを伝えたい人にはしっかり伝わっているはずです。

そんな感じでいいんじゃないのかなと。

なにもそんな気持ちで作っていないお弁当なんて絶対にダメだ!!なんてことが言いたいわけじゃないですよ。時間のないなかでいつも、いつもお弁当を作ってくれる親のありがたさは僕も十分に感じています。   

あくまでも例えです笑




そんな風にいろいろなことが本当に大切にするべきところに向いていくと僕たちの言葉や動きがどんどん変わっていくのかなと思ったんです。

それを自信とも言うのかな?