2011年12月24日土曜日

科学 カガク かがく

この4月から保育所で「かがくの じかん」というものに取り組んでいます。「かがく」といっても堅苦しいものではなく、簡単な実験を子どもたちと経験していくという感じで行っています。

科学と言われるとどうしても小難しいことを想像してしまうかもしれませんが、科学は僕たちの生活の中に自然と存在しているものだと思っています。「8歳までに経験しておきたい科学」という本にこんな言葉があります。「世界をわかろうとする人間の内的な欲求は組織化され、情報を集め、テストし、共有するためのきちんとした方法へと発展しました。そして、それは科学と呼ばれるようになりました」
こう考えると僕たちの周りにはそんな内的な欲求を発展させてきたもので溢れていることがよく分かります。実際に「科学(science)」という語は、ラテン語の「scire」を語源としています。「scire」とは「知ること」という意味です。
その本には続いてこう書かれてあります。「私たちが子どもたちに興味のある科学体験をさせるとき、知るという人間の自然な能力を育んでいることになります」



科学的な体験を通して、子どもたちは「不思議!!」という感情を抱きます。そして、その不思議はもっと知りたいという感情につながっていくんだと思っています。
知るということを支えてくれる感情に「好奇心」や「探究心」というものがあります。好奇心は「何かを学びたいと思ったり、知りたいと思う欲求のこと」と定義されています。つまりこの好奇心や探究心を育てるということは学ぶ力を育てるということになります。その学びの方向は子どもたちにの数だけあり、子どもたちが興味を持っていくことなのでしょうが、その基礎となる部分をしっかり支えていきたいなと思っています。


今後これらが発展していった先に「論理的思考」や「自己効力感や問題解決能力」というものがあります。論理的思考というのは「思いやり」につながると考えています。それは例えば、「〇〇ちゃんはこういう嫌なことがあったから泣いているんだ、だからきっと悲しいはず」というように相手の今の気持ちを察するということでもあると思うんです。


今やっている「かがくの じかん」では必要以上に論理性を求めようとは思っていません。実験を通して、子どもたちが「不思議だな!!」と感じ、「もっと知りたいな!」という好奇心の芽が育つように、感じること、体験することを大切にしていきたいと思っています。

なんだかごちゃごちゃしてしまいました。
伝わったかな.....伝わらないということはまだちゃんと理解できてないんだろうな。

2011年12月18日日曜日

会話

僕達は芸人さんではないので、誰かと話をする時にそれほど「面白い話」をしようと意識はしないと思います。
でも、少しニュアンスを変えてみたり、話の組み立てを変えてみたりして、相手に伝わるようにと、面白おかしく話を組み立てることはよくあるのではないでしょうか。



それはただ「面白い人」になりたいということではなく、自分の話を聞いてくれる相手への敬意にも似てる気がするんです。
自分の話を退屈そうに聞かす訳にはいかないから面白い話をしてみようとか。自分の話ばかりしなように気をつけようとか。




会話って自己満足で終わってはいけないものなのかなと最近よく思います。
相手がいて成り立つものなので特にそうなんだろうと思います。だから、逆に自己中心的な人はどうしてもその性格が会話にでてしまうのではないでしょうか。
相手を気にせずに会話をするというように。




それは会話ではないのかもしれませんね。会話は相手を思いやる一つの形でもあるんだと思います。
ということは性格が変われば会話も変わるのかもしれません。
いや、むしろ会話から性格を変えるということもできるのかも。

自分自身も明日からその辺りを意識して人と関わらないと訳なんです。

2011年12月11日日曜日

あの頃の僕

僕はとても楽しくて、バカバカしい少年期を過ごしてきたと思っています。

小学生の時にはとにかく毎日、誰かを笑わすことしか考えていませんでした。お風呂の中で明日はこんな風に笑いをとろうとよく考えていたものです。
学習発表会に向けての全体練習の場では毎回セリフにアレンジを加えて、その場のみんなから笑いをとろうと必死でした。

授業中も同じで、先生の揚げ足をとってばかりいました。これは今もかもしれませんが、長期休み(夏休み、冬休み、春休みなど)明けの初日にはみんなに会えた喜びと、久々にみんなを笑わせたいという思いで喋りまくり、毎回必ず、喉を痛めていました。

それに加え、無謀なことも考えるようになってきました。中学1年の時には剣道部に所属していながら、野球に目覚め、専門書を読んでは自宅倉庫で一人練習をしていました。時には弟(野球部)を相手に投げ込みの練習もして、フォームの確認、コントロール、変化球や直球に磨きをかけていました。その頃は本当にプロ野球選手を目指していたんです 笑

体育大会や地区の陸上競技大会で陸上部に勝つために古武術で有名な甲野善紀さんが陸上選手に指導したなんば走り(右手と右足、左手と左足を同時に出す)を習得するために学校からの帰り道を変な歩き方で帰ったりしていました。

どの挑戦も無謀で、まったく見通しのないものでした。アホです。

そんなアホなことの集合体が僕なんです  笑


2011年12月2日金曜日

想像し、拾い上げ、大切にする

夢ってみんながそれなりに持っているものですよね。マイホームを建てたいとか、素敵な人と結婚したいとか、BMWに乗りたいとか。多くの人がそんな夢を持って日々生活している。


時間という軸で考えるとみんな(当然、僕も含めてです)が持っている「夢」って「未来」という所に位置するものがほとんどじゃないかなと思うんです。つまり、「将来こうなりたい」とか「いずれはこんな物を手に入れたい」とか。そんな未来のことを想像しながら努力したり、行動したり、楽しんだりすることが夢の意味だったり、夢を実現する方法だったりする気がします。


そんなことを考えた時に夢って「欲望のかたまり」だな〜なんてなことを考えちゃったんです。もちろん、それが悪いなんてことは思いません。人はそんな風に欲望をうまくコントロールすることで人生を楽しんだりできると思うので(なんだかさらっと言っちゃってますが、このあたの考えはまだ猛烈に薄いですよ 笑)それを否定している訳ではありません。



でも、その「欲望のかたまり」の先にある夢も大切なんですが、時間軸でいうところの「現在」という位置にある「夢」の存在をもう少し意識できると人ってもっと幸せになれるんじゃないかなと思うんです。



例えば、昔から車を運転することが夢だった人がいるとします。免許取りたての頃はそんな夢が叶って嬉しくて仕方がない。でも、だんだん日が経つにつれて、車を運転するということが日常になるとそれは、もはやあまり魅力を持たないものになってしまう。
夫婦関係だってそうなのかもしれません。実際、僕は結婚していないのでなんとも言えないのですが、結婚する前はお互いにこの人と結婚するのが「夢」なんてことを思い描いていた人が多いはずです。
そして夢の結婚をむかえる。幸せな日々が続きます。夢が叶うということは幸せなことのはずです。でも、それも日常化してくると幸せだと感じなくなる。


日常化する、習慣化する、慣れるということって人間の素晴らしい能力の一つだと思うんです。でも、もう少し、その日常にある「幸せ」というものを想像してみてもいいんじゃないのかなと自分自身を振り返って思えてきたんです。

結構、僕の周りにも「叶った夢」という幸せが転がっています。

その一つひとつをもう少し丁寧に拾い上げて大切にしてみようと思います。

2011年11月29日火曜日

漠然

伝説の教師編はお休みしてwww


朝日新聞より。ある企業の代表の方のインタビュー記事から感じたことです。今後のグローバルな人材の育成や国際的な戦略をお話されていたのですが、なんだかどうも違和感があったんです。な〜んにも分からない僕がただ漠然と感じた違和感です。



外へ向けていく戦略は今後の課題になっていくんでしょうが、そのやり方もいろいろですね。
利益を求めることを最優先においているから仕方ないことなのでしょうが、その利益はどこを向いているんだろう。




もちろんより多くの利益を求めるというのが第一目的なのはよく分かります。ですが、日本にある企業として、日本国民の方向を向き続けていてほしいと思うんです。




そこから外へ向かうという姿をとってほしいなと。
ものすごく無責任です。僕は何も知らない。でも、何も知らないからこそ、そう思えたんです。
こんご国際社会で戦えない人材はいらない。戦えない奴は必要ない。ということだそうです。

何度も言いますが、利益を求める上では必要なのかもしれません。でも、大企業であるならそれと同じくらい、人を大切にするということをもっと考えてほしいんです。


そんな姿って結構みんなは見ている。
そんな会社が増えるともっと気持ちも豊かになるんじゃないかなぁ

2011年11月20日日曜日

僕たちの伝説の教師 パート1

高校時代に部活の顧問をしてくれていたO先生。僕たちはそのO先生が大好きでした。それはO先生がとてつもないエンターティナーだったからです。今回はそのエンターティナーたる所以を少しだけ紹介したいと思います。

剣道部に所属していた僕たちが、ある試合に出かけた時のことです。試合前の練習に向う僕たちにO先生からアドバイスがありました。
「おまえら〜しっかりアスレチックだけはしとけよ〜」

.....そんなダイナミック物はこの会場にはないし、第一アスレチックをするなんて言葉があるのか.....はっ!!ストレッチか!!ストレッチしておけということか!!この日はこれはまだ序の口でした。

試合前には毎回、先生からの話があります。しかし、彼は(もはや彼でここからはいきます)剣道をかじった程度なので技術論の話はありません。この日もいつものように試合の流れの話から始まりました。
「え〜男子団体戦が終わったら、次は女子だいたんせんだ」
はっ!!?だいたんせん?大胆戦?脱ぐのか?誘うのか、大胆に?
僕たちはクスクスと笑いをこらえることしかできませんでした。

ここで少し話を変えて彼のホームルームでの話をしてみたいと思います。彼が2年生を担任していた時の話です。その日のホームルームの内容を何にするかという話になり、おもむろに彼から「ソフトボールをしよう」という提案がもちあがりました。実は彼は学生時代、野球部として活躍していた選手だったのです。そのため、自らファーストの守備位置につき、華麗なグラブさばきで生徒達とのソフトボールを盛り上げていました。

しかし、事件は起こりました。ショートの悪送球です。しかし、彼は名手「そんなボール、俺に任せろい!!」と言わんばかりに体と腕と足を伸ばし、華麗に捕球を試みる。ですが、体は正直でした。40をこえた肉体は足を絡ませ、182をこえた巨体は棒のように固まり、彼はそのまま転倒!!頭は打ち付けてしましました。その姿を見ていた生徒達は心配して彼のもとに駆け寄り、「先生!!先生!!大丈夫ですか!?」と声をかけるのですが、どうやら気を失ってしまい、反応がありません。

しばらく声をかけていると大きな巨体が「うっぷすぅぅ〜!!」と大きな声を吐き目を覚ましました(うっぷすぅぅ〜って.....)。

そして、心配して駆け寄ってきた生徒にこう言ったのです。
「お前らこんな所でなにしてんだ!!授業はどうした!!教室に戻れ!!」
えっ!!??
そうなんです、彼は記憶がとんでいたんです.....


そんな彼は単発的におもしろい人ではありません。瞬間、瞬間おもしろい。つまりは常におもしろい人でした。それは学校での授業でもです。彼は歴史担当の教師でした。もちろん、その伝説的な授業はマニアの間では話題沸騰だったので、僕も迷いなく、彼の「日本史」の授業を選択しました。

次回はその伝説的な歴史での授業の様子をお伝えしたいと思います。



2011年11月12日土曜日

ハイイロチョッキリ

こんな風にコナラの枝がどんぐりをつけたまま道に落ちているのを見た事ありませんか?
実はこれ、ある昆虫の仕業らしいのです。
それが「ハイイロチョッキリ」なんです。なんだかそのまんまという感じの名前ですよね。

チッヨキリはゾウムシに近い種で日本では65種ほどが確認されているそうです。全ての種が枝を切るわけではなく、新芽やつぼみに産卵するものや葉っぱで揺り籃を作って産卵するものと様々です。この揺り籃を作るというのがまた、おもしろいんです。葉っぱで揺り籃を作り、その中に産卵するものに「オトシブミ」という昆虫がいます。これもゾウムシの仲間で、とても丁寧に葉っぱを丸めるんです。それに比べて、揺り籃を作る種のチョッキリはオトシブミほど丁寧ではないようです。
(ちなみに右がオトシブミの作品です)



話がそれましたが、ハイイロチョッキリはどんぐりの中に産卵をします。では、なぜそのドングリの実がなっている枝を切り落とすのでしょうか。説はいろいろあります。コナラが出す有害な物質から卵を守るためだとか、ドングリの成長をとめることで卵を守るとか......詳しくは分かっていないようです。その分かっていないという感じがいいですよね。分かろうとするのはいいんですが、分かるわけがないし、分からなくていいんですよ。それは自分で観察して分かった事にしておけばいい。それが研究者じゃない僕らの昆虫との関わりかた、楽しみ方なのかなとも思ったりします。



で、なんでチッヨキリの話をしているかというと、これを捕まえたいんです。しかもたくさん。そして観察してみたい。実際に枝をチッヨキリしている所を見たいんです。もう時期は過ぎてしまったので、来年の夏にこのチッヨキリに出会いたいと思っています。











2011年11月11日金曜日

吃音をもつ子どもたち

朝日新聞より。
「吃音」をもつ子たちが語り合うドキュメンタリーDVDがあるようです。吃音をもっていることでの悩みも様々で、バイト先の電話予約を受ける自信がなく、逃げてしまったり、「変な子とは遊ばない」と同級生に言われたり、意見を言い終わる前に教師にまとめられてしまったりなどという体験をしてこられたそうです。


そんな経験をした子どもたちが吃音に悩んでいる子にメッセージを送っています。「吃音のある自分を嫌いになっちゃいけない」、「私も吃音だから、心配とか困ったことがあったら助けてあげる」などです。


吃音をもつ子が悩んでいるのはほとんどにおいて対人関係なのかもしれません。

大きな輪の中にはたくさんの個があるはずなのに、ある一定の基準を満たさないと輪の中には入れてもらえないような雰囲気があるのではないでしょうか。自分達と違うという排除の感覚。逆に自分達と同じ人間なんてこの世にいるはずがないのに、分かりやすい特徴から相手を自分達とは違うということにする。


世の中の大きな輪の中の個がもっと多様で、それぞれに理解し合って、つながっていけるような輪になればいいなと思います。
まずは大人から見本をみせないといけませんね。

2011年11月5日土曜日

どうにかしようとすること。

以前、「どうにもならないこと」を経験することが大切なんじゃないかという内容の記事をアップしましたが、そのことについての続きみたいな内容です。


先日、11月にしては気温が高い日がありました。そうなると夜も気温は高い。お風呂上がりなんかは暑いくらいなんです。そこでドライヤーで髪なんか乾かしたらもう汗だくです(人より汗かきなので)。


体が暑く、汗もかいてしまったので、まだ片付けていなかった扇風機をつけようと手を伸ばしました。その時に、「まてよ、これってどうなんだろう」と思ったんです。


ここで僕が扇風機をつければ、すぐに体は冷めて、涼しくなります。汗も止まります。でも、これってあまりにも簡単なことなのではないかと。
その時、その時の現実とは向き合っていない感覚を感じたんです。


いつもに比べて気温が高い、だからお風呂上がりも体はまだ暑い。そんな時にドライヤーなんかしたら余計暑くなるに決まっている。でも、僕はそれを考えなかった。きっと暑くなれば扇風機を使えばいいやみたいなことを経験から無意識に感じていたのかもしれません。
だから、今日は暑いからお風呂上がりにはしばらくドライヤーはしないで、体を少し冷ましてからにしようとか、優雅に一杯冷たい飲み物でも飲んでから髪でも乾かそうかなという考えにはならなかった。


これが夏のような暑さならそうしたのだろうけど、秋の気温の高い日にはそういう考えにはならなかった。


そう考えた時に、なんだか工夫する力がこんな風にしてつかなくなるのかな〜と思ったんです。便利になれば不都合はほとんど無思考のままで都合の良いことに変えることができるようになる。その流れに自分もいるんだな〜と思うと少し気をつけなければいけないのかなと思ったんです。


便利になるこが悪いなんて全然思ってませんよ。便利大好きですからwww
どうしたってこれからそういう流れになるのは当然なのですから。でも、こんな感覚も忘れたくないなと思ってみたりしたんです。

なんだか、やっぱり何が言いたいのか分かりませんねwww自分でもwww


2011年10月29日土曜日

面倒くさいということ

僕は昔から「整理整頓」ができない。当然、今もできているとは言えない。特にいくつかのやらなければならないことがあったりすると、もうダメ。


あることをしながらも、「あっ!あれもしておかなければ」となって今していたことの整理や片付けを怠ってしまう。

もちろん、それだけではなく、ただ面倒くさいということもある。


少し前に「面倒くさいことが幸せなんだ」という言葉に出会った。正直、この言葉の意味を完全には理解していないのだけだ、最近、少しだけ分かってきたように感じることがある。この言葉と「整理整頓」という言葉がリンクするということも感じる。


整理整頓をし、面倒くさいことをする。これをすることで得る満足感や幸福感をもっと意識していきたい。

こんなことを考えていますが、体は面倒くさいことから逃げているんだよなwww

2011年10月21日金曜日

「ああすれば こうなる」

養老先生は現代は全てのことが「ああすれば こうなる」と思い込んでいる人が多いと仰られています。つまり「ああすれば こうなる」と思っている人は「どうにもならないことを受け入れない(以前、ブログにちょこっと書いてみました)」という人ではないのでしょうか。


自分も最近、現代人だなとつくづく感じたことがあります。それは先日、発売された「iPhone4S」についてです。10日に予約した僕に未だに入荷の連絡はありません。そのことに対しての不満を持っていました(まだ、持っているかな)。そんな不満を持っても仕方がないと思っているのに、やっぱり持ってしまう。予約すれば直ぐに手に入ると思っている。自分の思っていたようにならないので不満を持ってしまう。「ああすれば こうなる」と思っていますよね。


孫さんがtwitterで「世の中が悪いと嘆くだけでは何も変わらない」とつぶやいていました。まさにそれと同じことです。


ですが、よく養老先生も仰られていますが、現代はとことん「ああすれば こうなる」つまり人の意識で社会を作ってきた。人間が意識の中で作った都市はどうしても「ああすれば こうなる」ようになっている。そして、実際にそんな社会になった。だからこそ「ああしたのに どうしてこうならないの」という思いを強くするんでしょうね。


そうなるともう、自分自身かなり意識しないと「ああすれば こうなる」と常に思ってしまうことになりますよね。これは本当に気をつけないといけませんね。意識して修正しないといけない。「ああすれば こうなる」と思い込むことで他人への柔軟な対応もできなくなりそうです。


そんなことから養老先さんは自然に出ることをすすめています。自然は人間が意識して作ったものがない。つまり「ああすれば こうなる」ということが通用しないからです。僕たちが想像もできないことがたくさん広がっているのが自然です。そんな自然の中にいる子どもたちって柔軟な感情なんかを持っていきそうですよね。
もちろん、自然のような柔軟性を大人が持ち、子どもと接することもまた大切なのかなと思っています。















2011年10月18日火曜日

ムシ

子どもの頃の僕の最大の関心事は「昆虫」でした。
特に好きだったのがカマキリやてんとう虫です。とにかく、手当たり次第に捕まえては虫かごの中に入れていました。


そして、その虫かごに入っている昆虫をじーっと眺めるのがとても楽しかったことを覚えています。あんなに小さいのに形は細部まで整っていて、細かい体の部分をしっかり使って動いている。無駄がない。もう、芸術ですね。そして、その虫をスケッチするのも楽しかった。


昆虫図鑑もボロボロになるほど読んだり、見たりしていました。
昆虫がいる草むらってワンダーランドなんですよね。もう一つの世界があるんですよ。僕らの知らない、でもとてつもなく見てみたい世界。虫捕りをすることで、そんな世界に行っていたのかもしれませんね。

今でも昆虫を見ると何かが反応します。


2011年10月12日水曜日

あやふや

考えが全くまとまっていないのに打ち込んでいます。だから、最終的にはいつもな感じになるんだと思います.....

あやふやな感じ、不確かな感じってどうですか?不安ですよね。確かに不安になるんだと思います。どうせならはっきりしておいた方がいいですよね。
でも確かなこと、理解できることばかりじゃない。だから不安になる。
そんな思いってこれまで多くの人が抱えていたもののような気がします。


でも、そんな思いを抱えているだけではなくなってきた。そんな風に感じることがあるんです。
以前、緊急時の対応を教えてくれる講習会に参加した時の話です。
講師の方が「なにか質問はありませんか?」と投げかけました。なかなか理解できなかった部分やこういう場合はどうしたらいいの?ということに対しての質問がいくつかありました。その中で、「ん?そこまで聞く?」、「それって自分で判断できるんじゃないの?」という質問がありました。その時になんだか違和感を覚えたんです。


もちろんその方達は真剣に、本当に聞いてみたいという思いがあったのだと思います。
でも、なんだか「聞いたらなんでも解決する」ということではないと思うんです。

パソコンで気になることを調べる→少しの知識を得る→知ったような気分になる。正直こんな流れ、自分に当てはまります。当てはまりまくります。


今やこの流れは当たり前です。自分もその恩恵を受けまくっているので、それが良いのか、悪いのかもまったく分かりません。ただ、便利です。楽しいです。止める気もありません。




そうなんですが、なんですかね〜不確かなことを抱えることで広がる柔軟さがあったり、なんでも聞けば、調べれば理解できるということによる危険みたいなものもあったりするのかな〜と思ってみたり......自分に対する警告ですね。分かったような気になっている自分がいたり、知ることで臆病になっている自分がいたりしますから.....

はい、こんな感じです......







2011年10月4日火曜日

能を堪能

10月2日に出雲大社神楽殿で能を見てきました。
能のことなんて全く分からないのですが多くの著書で知られる内田樹氏のお話もあるということと一度でいいから能を見てみたいという思いで行ってきました。

最初は内田さんとその日の能に出演なさる安田登さんとの対談でした。そこではこの日の演目である「羽衣」の解説を含めたお話が盛り上がりました。
そのお話から僕は人間と自然(人間を超越したもの)との関わり方というものを感じました。なんて表現したらいいのか分からないので、つまり表現できないので、書きませんがとにかく楽しい対談でした。この対談のおかげで能を少しだけ分かりやすく見ることができました。

「羽衣」が始まってからはずっと圧倒されていました。なんて言うのでしょうか、圧倒的な圧倒ではなく、「じわ〜」と染みてくるような圧倒が続いたかと思うと「ぐわぁ!」と持っていかれるような圧倒的な圧倒に襲われたりと今までに味わったことのない雰囲気がそこにはありました。
シテ(天女)という中心人物がいるのですが、その人が完全に主役という感じではないんです。個人的な感情なのでよく分かりませんが、舞台には天女がいて、笛、小鼓、大鼓、太鼓、地謡(これらを囃子方と呼ぶそうです)がいて、漁師がいてという感じに、この方達それぞれが舞台を盛り上げている感じがするんです。それぞれが独立しているのではなく、それぞれが共鳴し合っている。

天女を見て、次は漁師に目がいき、太鼓にいき、小鼓にいき、地謡にいきとどこを見てもいいんです。キョロキョロしているだけなのかもしれませんが。
特に囃子方には圧倒されました。ほとんどそこを見ていたように思います。常に誰もが無表情な姿には凄みを感じました。ですがやっぱり、天女の舞っている後ろには迫力ある神楽殿の内部が広がっていて、天女と神楽殿のコントラストにはしびれました。



とかなんとか言ってますが結局は僕自身全く消化できていません。
そんなことをする必要もないのかなと思っています。ただ圧倒され、あの世界観をウルトラ、スーパー受け身で見たということに意味があると思いたいんです。
刺激的な時間でした。

こんな風に今まで見たことのない世界を体感していきたいと思っています。

2011年9月28日水曜日

自知落上

自分のことって知っているようで知らなかったんだなと最近つくづく思います。
「なんだよ俺なんにもできないじゃん」と思うことばかりです。


そんな自分の無力さを感じるとやっぱり落ち込みます。相当落ち込みます。「なにをしているんだ俺は.....」という風に。
もう負のスパイラルですよ。このスパイラルはなかなかのスパイラルですよ。自尊感情なんて吹き飛んでしまう。

だからといって、全てを投げ出していいのか。そうじゃないですよね。これって結構みんなが思っている当たり前なことなんでしょうが、実際に自分の無力さを痛感すると案外そんなことも言ってられなくなるんですよ。「もう落ち込んじゃって、ダメダメ」みないな感じになっちゃうんですよ。でもやっぱり、そこで思うわけです。投げ出したらいけない!!って。



むしろその無力さを感じる機会があって、ありがたいんじゃないかと思うようになってきたんです。「あぁ〜ここがだめだよな〜」と感じたら、そこを改善するために意識すればいい。そんな風に思うようになってきました。自分に足りない所が分かった!!と思えばいい。足りない所だらけな自分に早く気がつくことってかなり大切なんじゃないのかな。


かつて福田元首相が「私は自分を客観的に見る事ができるんです」って言ってたけど、自分を客観的に見るのって相当難しいと思います。むしろ出来ないような気がします。
でも、自分を客観的に見ようとする努力はできると思います。この違いってかなりあると思います。客観的に見る事はできないけど、客観的に見ようとする事はできるはずです。それを止めたらいけないのかなと気がつくことができたように思うんです。



ですが、最後に.....そうは言ってもやっぱり落ち込みますよ 笑




2011年9月20日火曜日

最近の若者って?

よく、「最近の若者はつまらん!!」というような意味の発言がありますよね。僕自身も若者ですが「そんなことない!!」と声を張り上げて言うつもりはありません。

僕が中学生の頃に退職した小学校の元校長先生と話をする機会がありました。その中で、「携帯電話なんか持ちなさんなよ。私なんかも持ってはいるけど今なんかほとんど使ってないよ」と言われました。

そして、そんなことを言われて少しだけ腹を立ててしまったのを覚えています。
中学生の僕と還暦過ぎた二人の人間を比較するのはどうなんだと。逆に聞きたい。あなたが中学生の頃に携帯があってもあなたは携帯を持たないのかと!


そんな感覚で最近の若者は.....みたいな事を言ってほしくないなと思ったのを覚えています。


何かに記されてあったそうなんですが、古代エジプト人もその昔「近頃の若い者はつまらん」という意味合いの言葉を残していたそうですよwww



2011年9月13日火曜日

歓喜

先日、広島で行われた福山雅治さんのライブ「THE LIVE BANG!!」に参戦してきました。


もう感動を通り越しました。現実との境が分からなくなるくらい幸福感に包まれた時間でした。何より、福山さんの誠実さを感じました。実際に見てはいますが、直接的に会って、話した訳ではない。でも、伝わるんです。その誠実さが。


そして、もう一つ強く感じたこと。それは自分のちっぽけさです。あそこまでのエネルギー溢れる、大きな人を感じて、いい意味で自分の身の丈を感じることができたと思っています。これ、かなり僕自身の中では意味あることなんです。



今後の自分のあり方や進むべき道の指針ができたように思います。昔からのファンですが、これは実際に会場に行き、本物を感じないと湧いてこない感情だと思います。

言葉はいらない。

2011年9月7日水曜日

曜日。

この間、ある先生が朝の会で「曜日」について話をしているのを聞いて、どうやって日曜から土曜といった並び順になったのかが気になりました。




間違っていたらすいません......


そもそも日曜は太陽。月曜は月、火曜は火星というようにそれぞれの天体の名前からきています。これら7つの天体を七曜と呼ぶそうです。七曜は守護の役目もあったそうです。




昔の(かなり大雑把www)天動説では七曜は地球から見て角速度が早いものほど地球に近いと考えられていたそうです。
角速度とは物体や質点の回転の速さを表す量であるそうです。そして、その角速度は角度と時間の商で表すことができるそうです..........まあこのへんはニュアンスですよ!!ニュアンスwww


その角速度からいくと地球から『月・水星・金星・太陽・火星・木星・土星』の順に並んでいると考えられていたそうです。


いまのところバラバラで、まだ現在の並び順ではないですよね。では、ここからどうなるか。


本来、七曜は、1曜が1日ではなく1時間毎に地上を守護すると考えられていたそうなんです。つまり1時間ごとに七曜が変わる。0〜1時までが土で、1〜2時までが木みたいな感じですね。




もっとも遠い天体からスタートするので、0〜1時までが土で、1〜2時が木、3〜4時は火という一時間毎に変わっていくんです。そうするとどうなるか。次の日の一時間目がポイントです。ポイントというより、答えです。ある日のスタートが土から始まって、次の日の一時間目つまり、24時間後の0〜1時に日(太陽)がくるのです。そうなるともう分かりますね。その次の日の一時間目に月がくるんですよ!!


そして、その日の一時間目の天体がその日一日を守る守護星だと信じられていたので、日、月、火、水、木、金、土という並びになったらしいのです。


どうですか。うまく説明できてないでしょう!!www















2011年9月4日日曜日

智頭町森のようちえん「まるたんぼう」

先日、鳥取県智頭町にある森のようちえん「まるたんぼう」に行ってきました。そこでの感動はtwitterなんかでたくさんつぶやいたのですが、本当に素晴らしい一日でした。



智頭町の自然も素晴らしかったのですが、やはり、そこで探究心や好奇心をフル活動させ、主体的に遊んでいる子どもの姿、そしてそれをしっかりと見守る職員のみなさんの姿にもの凄い刺激を受けました。



感動はたくさん。本当に幸せな時間でした。
次はその様子や感じたことから自分達の活動を見直したり、もう一度考え直すことが必要です。
まず感じたことは、徹底した見守るという姿勢です。子ども達は高い崖のような所も歩きます、急な斜面も歩きます、もちろん今までの経験もあり、慣れてはいるのでしょうが、「危ないから、そっちはダメだよ」なんて声は聞こえない。森に入る前の道路でだって必要以上の声はかけない。これって果たして自分はできているんだろうかと思うと、まだまだな気がします。ここまで徹底した見守るという姿勢を見るとその思いはより強くなります。


「危ないよ」と言われたらそれは人の判断になる。というお話もありました。本当にそうですね。その瞬間に子どもは「あっ危ないのか」と自分の判断を使うことを止めてしまう可能性がある。これはとても納得でした。


次ぎに子ども達の活動は保証されている。子どももそれを理解しているということを感じました。森に着き、思うままに基地作りに取り組んでいた子ども達。でも、しばらくして「朝の会しようかな〜」という職員の方の声で自然と集まってきたのです。代表の西村さんの話にもありましたが、子ども達はこの朝の会が終わればまた、自分の好きなように遊べることを知っているから集まれる。それに朝の会も苦痛な時間ではない。しっかり活動が保証されているからきっと落ち着いているんだろうということでした。

保育所での生活はどうしても時間が優先されます。活動があっての時間というよりも、時間があっての活動。そんな印象を受けます。以前に比べるとかなり変わってきてはいるのですが、もう少し時間というものの捉え方を考えなければと思っています。


そして、智頭という地域と上手く繋がっている。これは代表の西村さんが以前研究していたマングローグからヒントを得ているそうです。
マングローグの破壊を止めるにはそれを違法に伐採する、伐採するしかない貧しい人達も救わなければいけない。そんな経験がこのまるたんぼうの活動にも活きているのだそうです。それは日々のブログや見学の際に感じました。


保育所や幼稚園と地域のあり方はこれからどんどん変わっていくものだと思います。まだまだ、はっきりと想像できていませんがこれからの課題にもなりそうです。


まるたんぼうの方達とのお話や、見学の様子から強く感じたことはやはり「関わる大人の姿勢」です。

環境はもちろん素晴らしいのですが、その環境は活かすのは関わる大人次第ではないでしょうか。どんなに良いバットやシューズを身につけたからといって、僕はプロ野球選手にはなれません。優秀な選手がたくさんいてもロボットには監督は務まりません。

それを活かすのは人なんだろうと思います。

「保育って楽で、楽しいものだと思います」こんなことを職員の方が言っておられました。この言葉に子どもとの関わり方が集約されている気がします。




出しゃばっているだとか、調子にのっているだとか、偉そうにだとか。
そう思われてもいいです。僕は素直にいいと思ったことを口にして、行動していきたいと思います。

そんな思いを強くさせてくれた素晴らしい時間でした。ぜひ、またお邪魔したいと思います。






自然

なんだかいつもと同じような内容のブログになってしまうかもしれませんが、少し思ったことを文章にしてみようと思います。



自然ってなんなんでしょうか。最近そんなことを考えます。分からないから考えたくなります。考えてはいますが、やっぱり分かりません。でも、考えています。ずっと。



まず、自然って人間の意識が及ばない所だと思っています。人間が意図して作り上げたものではないので当然ですね。では、僕たちの住んでいる所はどうでしょうか。ほとんどの物が人間が意図して、意識して作った物だらけです。道路だって、信号だって、建物だって全てがそうです。



人間が作った物だからある程度はどんな物か、どんな動きをするか、どんな物があるかが予想できる。知ってしまっている。
では、自然はどうなんでしょう。必ずここに行けば、この生き物にあえる。いつも同じ形で川は流れている。水量も同じ、季節に関係なく昆虫や動物はいつも同じ種類の物がいる。


果たして、そんなことがあり得るのでしょうか。あり得ないですよね。川は日々形を変え、生き物の種類は無数で、よく目を凝らせば名前もしらないものばかり、どんな物を食べて、どんな生き方をするのかなんて分からない。

だから、おもしろいのだと思うんです。知らない事だらけ、知らないからおもしろい。「知らない」ってこともかなり大切だと思うんです。



養老孟司さんは著書で「知る事は怖いことだ」と書いておられました。最近になってその意味がなんとなく分かってきたように思います。



例えば子どもが誰かに何か一方的に教え込まれ、その何かについて知った気になってしまうとします。そうするとその子どもの何かに対する興味は薄れてしまうのではないでしょうか。大人でもそうです。知った気になることが僕もよく、あります。そうなるとどうなるか.....もうその事は知った気になっているのでその事について深く考えないようになってしまう。


これは、怖い事ですよね。その人の中で固まってしまう。決めつけてしまう。

だからこそ、人間はたまには「知らない世界」に出向かなければいけないと思うんです。こんなに発展した都市になっているので、意識して出て行かなければならないと思うんです。

その知らない世界が自然だと思っています。


ん~うまくまとまってないぞ~まだまだ自然について分からないことだらけなのでこんな内容が更新されるかもしれません.....

里山



「里山」っていいですよね。美しい景色です。
最近、里山を目にする機会が増えたので特にそう思います。どうして、里山はあんなに美しいのでしょうか。以前、養老孟司さんがその理由を「人間が手入れしているから」と書いておられました。
フィリピンでは里山が世界遺産になっています。



里山は原生林ではありません。開拓され、田んぼもある。その田んぼは人間が管理している。手入れしている。だからこそ、美しい自然として存在しています。

養老さんは子どもは「自然」であるとおっしゃています。
身の回りにある自然のことを人間は全て理解している訳ではありません。だから何か都合の悪い事があれば相手の様子を伺いながら手入れしていくしかない。稲だって太陽と水と肥料で育つからといっても放っておけば雑草だらけになってしまう。


上手く手入れしてあげないといけない。でも、手入れってコントロールすることではないと思うんです。コントロールする時にはきっと相手の反応なんて関係ない。自分の思う所になんとか持っていこうとする。それに比べて手入れは、相手の様子から自分の行動を決める。


子育てもこれと同じなんだと。でも、この手入れって結構な手間がかかるみたいですね。今から将来のために手入れの覚悟が必要ですwww
ん~うまく整理できましたかね?なんだかよく分からなくなってきました。いつものことですね。

どうにもならないこと。

「どうにもならないこと」って世の中に溢れています。自分の思い通りならないことばかりです。でも、なんとか自分の思い描いた通りに事が進むように僕達は努力をします。


それでも、どうにもならないことって沢山あるものだと思うんです。



「どうにもならないこと」って体験から学んでいくものの様な気がします。

例えば、人間関係。これは年齢に関係なく、いろいろな人とと関わることで感じられるのではないでしょうか。保育園の中で様々な友達と遊ぶ、生活を共にする。そんな中で、おもちゃを貸し借りや意見のぶつかりを経験する。誰もが自分の言う事を聞いてはくれないと感じる。

「どうにもならない」ことです。

小学生の頃、カブトムシを飼う。メスとオスを飼育して、なんとか卵を産ませたい。カブトムシも長く飼いたい。でも、子どもの思いとは裏腹にカブトムシは越冬することもなく、交尾することもなく、死んでしまう。

「どうにもならない」ことです。


中学、高校となり、好きな異性とつき合うことになった。デートに出かけたり、ふたりだけの会話を楽しんだり、キスをしたり。でも、別れはやってくる。自分は別れたくはない、でも相手の意思は固い。これは、別れるしかない。

「どうにもならない」ことです。


高校、大学を出て、就職。結婚もして、子どもが生まれる。仕事から帰って、家で明日のために少し仕事をしようとパソコンを開く。しかし、しばらくすると子どもが目を覚まし、泣き出す。奥さんは明日、朝が早いので旦那さんが子どもをあやし、寝かしつける。結局、仕事は進まない。

「どうにもならない」ことです。


生きていく中で、人と関わる中で、どうにもならないことや思い通りにならないことは日常です。だから、楽しい。だから人は人と生きていけるんじゃないでしょうか、それを互いに理解し合うことで。


自分の思い通りになんかならい。それを強引に進めようとすると強制や縛りになる。それは良い関係ではないと思うんです。これは、もう体験するしかありません。そんな環境を大人達が用意することって大切なんじゃないのかなと漠然と思うんです。

どうでもいい話


以前つぶやいたことを少し整理したくてアップします。(追記…結局、まとまりませんでした(*:*))
 小笠原諸島、琵琶湖、西表島、日本でも様々な所で生態系の問題があり、それに対しての対策もなされています。それは、日本だけではなく世界的なことだと思います。
 


 人間の手で破壊されたといわれる各所の生態系。例えば、琵琶湖ではかつて琵琶湖には存在しなかったブラックバスが問題になっています。人間の手でやってきたと言われるブラックバス。繁殖力も強く、また肉食であるため、琵琶湖の在来種の魚を捕食します。そのため在来種の魚がどんどん減少しているという問題があります。



 その増えすぎたブラックバスを駆除しようという動きも大きくなって、実際に行われています。琵琶湖に限らず、こういった問題は各地で起こり、多くの生物が駆除の対象になっています。


 駆除されている生物のほとんどが外来種。日本には存在していなかった生物。人間の手などによって持ち込まれた生物です。持ち込まれた理由も様々ですが。


 そんな駆除活動のニュースを見ていて何だか違和感を覚えたのです・・・・・・・・


 確かにその生物を持ち込んだのは人間です。それが、本来の地球のスピード?どう表現したらいいんだろ・・・つまり・・・人間が持ち込んだから環境、自然からしたら不自然だと。不自然に生物が繁殖し、他の生物が絶滅の危機にあるから、じゃぁ、その不自然の元である生物を排除しようと。


 なんだか、それって変ですよ。本当に不自然なのでしょうか?なんならそれも自然なことなんじゃないの?と思ってしまうんです。

大昔、僕たちは日本には住んでいなかった。渡来してきて日本に住みついた。そんな風にして人間は何万年もかけて繁殖してきた。森を切り開き、田畑を耕しながら。


 少し話はとびますが。鳥の足に生物の卵や、植物の種子などが付着することで離れた場所に卵や種子を運ぶことになり、各地で繁殖するみたいな例もあるようです。


 これらとブラックバスなどの外来種の繁殖にあまり違いがないように思うんです。人間の手で運ばれたのも一種の手段なだけではないでしょうか。ブラックバスの繁殖方法の一つにすぎない。その結果、在来種が絶滅し、外来種の天国になったとしても、それも自然なのではないかなぁなんて思うんです。


 そんな風にして絶滅と誕生を繰り返して地球は生きてきたように感じます。もちろん、そのスピードに問題があると言われれば納得するんですが、このスピードの速さもここまで文明が発達したら自然なことなのではと。

きっと、このスピードに環境も適応していくような気がするんです。



環境破壊ですら、自然な現象みたいな。

自分でも何が書きたいのかよく分からなくなってきました・・・とにかく何でも駆除みたいな行為に違和感を覚えたので・・・・・・



ブラックバスの数が減少すれば、きっとブラックバスを保護する動きになるんだろうし・・・

でも、決して批判しているわけではありません。自然のために、地球のためにという思いの活動を非難するつもりは全くありません。