2011年10月29日土曜日

面倒くさいということ

僕は昔から「整理整頓」ができない。当然、今もできているとは言えない。特にいくつかのやらなければならないことがあったりすると、もうダメ。


あることをしながらも、「あっ!あれもしておかなければ」となって今していたことの整理や片付けを怠ってしまう。

もちろん、それだけではなく、ただ面倒くさいということもある。


少し前に「面倒くさいことが幸せなんだ」という言葉に出会った。正直、この言葉の意味を完全には理解していないのだけだ、最近、少しだけ分かってきたように感じることがある。この言葉と「整理整頓」という言葉がリンクするということも感じる。


整理整頓をし、面倒くさいことをする。これをすることで得る満足感や幸福感をもっと意識していきたい。

こんなことを考えていますが、体は面倒くさいことから逃げているんだよなwww

2011年10月21日金曜日

「ああすれば こうなる」

養老先生は現代は全てのことが「ああすれば こうなる」と思い込んでいる人が多いと仰られています。つまり「ああすれば こうなる」と思っている人は「どうにもならないことを受け入れない(以前、ブログにちょこっと書いてみました)」という人ではないのでしょうか。


自分も最近、現代人だなとつくづく感じたことがあります。それは先日、発売された「iPhone4S」についてです。10日に予約した僕に未だに入荷の連絡はありません。そのことに対しての不満を持っていました(まだ、持っているかな)。そんな不満を持っても仕方がないと思っているのに、やっぱり持ってしまう。予約すれば直ぐに手に入ると思っている。自分の思っていたようにならないので不満を持ってしまう。「ああすれば こうなる」と思っていますよね。


孫さんがtwitterで「世の中が悪いと嘆くだけでは何も変わらない」とつぶやいていました。まさにそれと同じことです。


ですが、よく養老先生も仰られていますが、現代はとことん「ああすれば こうなる」つまり人の意識で社会を作ってきた。人間が意識の中で作った都市はどうしても「ああすれば こうなる」ようになっている。そして、実際にそんな社会になった。だからこそ「ああしたのに どうしてこうならないの」という思いを強くするんでしょうね。


そうなるともう、自分自身かなり意識しないと「ああすれば こうなる」と常に思ってしまうことになりますよね。これは本当に気をつけないといけませんね。意識して修正しないといけない。「ああすれば こうなる」と思い込むことで他人への柔軟な対応もできなくなりそうです。


そんなことから養老先さんは自然に出ることをすすめています。自然は人間が意識して作ったものがない。つまり「ああすれば こうなる」ということが通用しないからです。僕たちが想像もできないことがたくさん広がっているのが自然です。そんな自然の中にいる子どもたちって柔軟な感情なんかを持っていきそうですよね。
もちろん、自然のような柔軟性を大人が持ち、子どもと接することもまた大切なのかなと思っています。















2011年10月18日火曜日

ムシ

子どもの頃の僕の最大の関心事は「昆虫」でした。
特に好きだったのがカマキリやてんとう虫です。とにかく、手当たり次第に捕まえては虫かごの中に入れていました。


そして、その虫かごに入っている昆虫をじーっと眺めるのがとても楽しかったことを覚えています。あんなに小さいのに形は細部まで整っていて、細かい体の部分をしっかり使って動いている。無駄がない。もう、芸術ですね。そして、その虫をスケッチするのも楽しかった。


昆虫図鑑もボロボロになるほど読んだり、見たりしていました。
昆虫がいる草むらってワンダーランドなんですよね。もう一つの世界があるんですよ。僕らの知らない、でもとてつもなく見てみたい世界。虫捕りをすることで、そんな世界に行っていたのかもしれませんね。

今でも昆虫を見ると何かが反応します。


2011年10月12日水曜日

あやふや

考えが全くまとまっていないのに打ち込んでいます。だから、最終的にはいつもな感じになるんだと思います.....

あやふやな感じ、不確かな感じってどうですか?不安ですよね。確かに不安になるんだと思います。どうせならはっきりしておいた方がいいですよね。
でも確かなこと、理解できることばかりじゃない。だから不安になる。
そんな思いってこれまで多くの人が抱えていたもののような気がします。


でも、そんな思いを抱えているだけではなくなってきた。そんな風に感じることがあるんです。
以前、緊急時の対応を教えてくれる講習会に参加した時の話です。
講師の方が「なにか質問はありませんか?」と投げかけました。なかなか理解できなかった部分やこういう場合はどうしたらいいの?ということに対しての質問がいくつかありました。その中で、「ん?そこまで聞く?」、「それって自分で判断できるんじゃないの?」という質問がありました。その時になんだか違和感を覚えたんです。


もちろんその方達は真剣に、本当に聞いてみたいという思いがあったのだと思います。
でも、なんだか「聞いたらなんでも解決する」ということではないと思うんです。

パソコンで気になることを調べる→少しの知識を得る→知ったような気分になる。正直こんな流れ、自分に当てはまります。当てはまりまくります。


今やこの流れは当たり前です。自分もその恩恵を受けまくっているので、それが良いのか、悪いのかもまったく分かりません。ただ、便利です。楽しいです。止める気もありません。




そうなんですが、なんですかね〜不確かなことを抱えることで広がる柔軟さがあったり、なんでも聞けば、調べれば理解できるということによる危険みたいなものもあったりするのかな〜と思ってみたり......自分に対する警告ですね。分かったような気になっている自分がいたり、知ることで臆病になっている自分がいたりしますから.....

はい、こんな感じです......







2011年10月4日火曜日

能を堪能

10月2日に出雲大社神楽殿で能を見てきました。
能のことなんて全く分からないのですが多くの著書で知られる内田樹氏のお話もあるということと一度でいいから能を見てみたいという思いで行ってきました。

最初は内田さんとその日の能に出演なさる安田登さんとの対談でした。そこではこの日の演目である「羽衣」の解説を含めたお話が盛り上がりました。
そのお話から僕は人間と自然(人間を超越したもの)との関わり方というものを感じました。なんて表現したらいいのか分からないので、つまり表現できないので、書きませんがとにかく楽しい対談でした。この対談のおかげで能を少しだけ分かりやすく見ることができました。

「羽衣」が始まってからはずっと圧倒されていました。なんて言うのでしょうか、圧倒的な圧倒ではなく、「じわ〜」と染みてくるような圧倒が続いたかと思うと「ぐわぁ!」と持っていかれるような圧倒的な圧倒に襲われたりと今までに味わったことのない雰囲気がそこにはありました。
シテ(天女)という中心人物がいるのですが、その人が完全に主役という感じではないんです。個人的な感情なのでよく分かりませんが、舞台には天女がいて、笛、小鼓、大鼓、太鼓、地謡(これらを囃子方と呼ぶそうです)がいて、漁師がいてという感じに、この方達それぞれが舞台を盛り上げている感じがするんです。それぞれが独立しているのではなく、それぞれが共鳴し合っている。

天女を見て、次は漁師に目がいき、太鼓にいき、小鼓にいき、地謡にいきとどこを見てもいいんです。キョロキョロしているだけなのかもしれませんが。
特に囃子方には圧倒されました。ほとんどそこを見ていたように思います。常に誰もが無表情な姿には凄みを感じました。ですがやっぱり、天女の舞っている後ろには迫力ある神楽殿の内部が広がっていて、天女と神楽殿のコントラストにはしびれました。



とかなんとか言ってますが結局は僕自身全く消化できていません。
そんなことをする必要もないのかなと思っています。ただ圧倒され、あの世界観をウルトラ、スーパー受け身で見たということに意味があると思いたいんです。
刺激的な時間でした。

こんな風に今まで見たことのない世界を体感していきたいと思っています。