2015年4月19日日曜日

島根県のこと

歴史を知るのはおもしろいことだなと思います。
とは言っても歴史について、詳しくはないのですが、
歴史を知ることで、今の生活が歴史の上といいますか、
つながりを持っているんだな感じることができるので、
なんだか嬉しくなります。


で、思ったのが自分が住んでいる県の歴史を全然知らないじゃないか
ということなんです。なんなら今の県の様子も分かっていないかもしれません。
そんなことで島根県についてちょっと調べてみました。


まず、1869年の版籍奉還によって、各藩の管理下にあった土地や人々が
新政府に属するものとされました。そして、各藩の藩主は藩知事となり、
中央から任命される形で各地を統治する役目を担うことになりました。
その後、1871年には藩も廃止され、その代わりに県を置くという
廃藩置県が行われます。授業で聞いたことのあるあれですね。
廃藩置県の直後は今まで藩だった領地をほぼそのまま県に行こうしただけだたので、
全国で3つの府と302の県が成立したそうです。
全部覚えられそうもありませんね。


で、島根なんですが、廃藩置県の直後は松江県、母里(もり)県、
広瀬県、浜田県の4県が置かれたそうです。
母里県と広瀬県はいずれも現在の安来市付近になりますが、
どちらも領地は大変狭いものだったそうです。


次に県西部の石見地方ですが、当時は浜田藩、津和野藩が存在していました。
浜田藩は長州征伐(長州藩と幕府との戦い)に際し、幕府側について参戦した
そうなのですが、敗退してしまいます。そのため、長州藩に占領される
ことになります。なんだか、放送中の大河「花燃ゆ」につながる感じが
してわくわくしますね。
しばらくは長州藩の支配にあったのですが、1869年に大森県が置かれた
ことにより、長州藩の占領が終わりを告げることになります。
大森県は銀山のあった大森に県庁を置いていたそうですが、
1870年初旬に大森から浜田に県庁所在地が移され、大森県は
浜田県と改称することになったそうです。
大森県もあったということは、
1869年の版籍奉還の時点では、廃藩置県後の4県よりも
もっと多くの県が島根にはあったのでしょうね。


また隠岐は江戸時代、松江藩の支配下にあったそうなのですが、
1869年には隠岐県が置かれ、松江藩から独立します。
しかし、同年、大森県(浜田県)の管轄に組み込まれることに
なったそうです。隠岐と浜田では距離もかなり離れているのに不思議ですね。


このように現在よりも多くの県が置かれることになったのですが、
多くの規模、境界を持つ県があり、その後の県の運営に支障をきたすのでは
と考えられ、県の整理、統合が行われていきます。
ますは1871年に松江県、母里県、広瀬県が統合され、島根県が成立します。
ここで、やっと島根という言葉が出てきました。
さらのこの島根県に浜田県から分離した隠岐県が組み込まれることに
なったのですが、同年12月に隠岐県は鳥取県に移ることになります。
ちょっと隠岐は振り回されすぎではないかと思ってしまいますね。
一方、浜田県は、まだまだしばらく浜田県として存続していきます。


そしてようやく、5年後の1876年に浜田県は廃止され、島根県に統合され、
新生、島根県が置かれることになります。
どうして浜田県の統合はそんなに後になったのですかね。
やはり距離の問題だったりするのでしょうか。
島根県は東部と西部ではかなり距離が離れています。
現在でも東部と西部には妙な壁があるように感じてしまいます。
東部の人からすると、西部が同じ島根県であるという意識はもしかすると
あまり強いものではないのかもしれません。
それはまた西部の人もそうかもしれません。
時、浜田県と別れていたことも関係しているんですかね。


またある時期、鳥取県と島根県が一緒になり、島根県という
管轄にもなっていたそうです。後に反対運動が起こり、
鳥取県と島根県は分離されたそうですが、知らないことはまだまだありますね。





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